<白球がつなぐ絆>「闘将支える妻と母」浦和学院・森士監督

 二人の息子とじゃれ合う姿はどこにでもいるマイホームパパだ。妻と話す時は冗談を交え、笑いが絶えない。優しい母の前では、今でもちょっぴりやんちゃな息子。そのにぎやかな茶の間の風景は、多くの家庭となんら変わらない。

 ただ違うのは、家族の大黒柱が一歩外に出れば、厳しい勝負の世界に身を置いていること。春夏通じて県内最多の通算十五度の甲子園出場を誇る浦和学院。そのうち十三度はこの監督が導いた。森士(おさむ)、四十四歳。埼玉を代表する指導者だ。

 上尾高から東洋大を経て一九八七年、浦和学院のコーチに就任し九一年、弱冠二十七歳で常勝チームの指揮を託された。青年監督はその約八カ月後、春の選抜大会に最年少監督として初出場し、4強に名を連ねた。

  妻の志奈子(47)とは九〇年三月に結婚した。当事二十五歳の士は浦和学院のコーチ。妻は同級生の姉だった。だから小さいころから知っていた。憧れの女性 でもあった。明るい妻である。士が息子と野球の話ばかりしていると、違う話題でちゃちゃを入れようとする。「指導者の妻としての自覚がないんだよな~」と 士は苦笑い。ただ、そんな冗談を言い合う二人にもたくさんの苦労があった。

 監督に就任したころ、士はやはり多忙だった。就任一年目で甲子園に出場したものの「二回目はいつ行けるのか」。指導者としての真価が問われるのはこれから。必死だった。

  長男の大(17)は当時二歳。次男の光司(15)も生まれ、志奈子もてんてこ舞いだった。子育てに一番手のかかる時期に夫は家にいない。風呂に入れて泣き 叫ぶ息子たちをあやしながら志奈子も泣いた。就任六年目のころ、心身ともに疲れ果てた妻は、神経症の病を患い三カ月寝込んだ。「野球か家庭かどちらかにし て」と訴えることもあった。でも、本音ではなかった。そう言わざるを得ない状況に追い込まれていた。翌年には士が胃潰瘍(かいよう)で倒れた。

 家族にとって苦しい時代を迎え、士の考えも少しずつ変わった。それまでは寝ても覚めても野球ばかり。妻と話しても上の空。「それでは駄目だと気づいた。相手を理解して自分を理解されるようにならないといけないと感じた」。

 士は試合で負けても家で愚痴をこぼすことはない。「何も言わないというか、言えないというか。やっぱり負けた時に一番考える。野球が好きだから。敗戦をどうやって生かすかを一人で考えるね」。

 そんな夫に対して妻も多くは語らない。志奈子は「ウラガクをずっと応援してきたし、主人とけんかしてもこっそり応援に行った。一生懸命頑張っている選手たちのことを思うと、そこから主人を取るわけにはいかなかった」。

 母・富枝(73)は士が初めて甲子園で負けた時、電話で言った。「一生懸命やったんだから胸を張って帰ってきなさい。だけど皆さんのおかげで甲子園に行けたのだから、できるだけ頭は下げて帰ってきなさい」。その思いは今でも変わらないし、士の原点でもある。

 そして野球を教えてくれた父・克(かつみ)。士がコーチだった八九年に六十四歳の若さで亡くなった。「親父っ子だったから」。甲子園での晴れ姿を見せられなかったが、コーチ時代から試合前には必ず父の墓前に手を合わせ、「けがなく見守ってくれ」と語り続けている。

 士を陰から支える母と妻。そして二年前から白球の絆に息子が加わった。長男の大(だい)は浦和学院の投手として最後の夏を迎えようとしている。大は、父で あり監督である士について多くを語ろうとしない。だが、父の苦労をずっと見てきた。勝っても「当たり前」と言われ、負ければ批判される強豪チームの監督の 重圧は相当のものだ。「父として信頼できる人。監督としてはすごい人と思う。甲子園に連れて行きたいですね」。

 家族の中心にはいつも高校野球がある。楽しい時も苦しい時も。士にとって家族とは「一緒に戦ってくれる存在。ここにいると安心できる。だから、どんなことにでも挑んでいけるんだ」。闘将の顔がほころんだ。(敬称略)

(埼玉新聞)



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  1. 荻谷竜 2016.05.08 1:10am

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