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ラストプレーボール浦和学院・小島和哉(上)苦悩と葛藤の日々

 浦和学院・小島和哉(おじま・かずや)。言わずと知れた昨春の選抜大会優勝投手だ。しなやかなフォームから伸び上がる直球、ピンチで光るクレバーな投球は見る者の心を熱くさせる。だが春夏連覇を狙った昨夏の甲子園で初戦敗退後、最上級生となった今季は苦しみの連続だった。そして迎える最後の夏。どん底からはい上がってきた全国屈指の左腕はマウンドでどんな答えを出すのか。この1年を追った。

◇高校野球の怖さを知った夏

  苦悩はあの試合から始まった。

 昨年8月10日、埼玉県勢の“悲願”へ、期待を一身に浴びた小島は、甲子園初戦の仙台育英(宮城)戦のマウンドに立った。

 しかし、背番号1は不安を抱えていた。「(試合)前日から球がいってないのは分かっていました。自分の中で『ヤバイぞ』と」。埼玉大会で50イニングを投げた代償は、想像以上に大きかった。体力は回復せず、疲労から左肩の状態も万全ではなかった。七分袖アンダーシャツの下は、左肘から肩にかけてテーピングがぐるぐると巻かれていた。

 悪い予感は的中した。試合前の投球練習から肩は重く、マウンドには埼玉大会とは全く別人の小島がいた。50回で14四死球と安定感抜群の制球力を誇った左腕が、一回だけで5四死球。3安打を許し、いきなり6失点した。打線が10-6と逆転してくれたが、六回にも4点を失い、追い付かれた。

 10-10で迎えた九回裏。六回の投球練習中に違和感を感じていた左太もも裏がつった。体力は限界に達していた。2死から、182球目を左前に運ばれると、3年生山口との交代を告げられる。「試合を壊しておいて、のうのうと代われない。代わりたくない」。首を横に振ったが無念の降板。チームはサヨナラ負けを喫した。

 試合後、ベンチ前で「すみませんでした」と大粒の涙を流しながら森監督の肩に頭(こうべ)を垂れた。「おまえのせいじゃない。泣いていたら来年は来られないぞ」。森監督に右手を引っ張られ、引き揚げていく姿は痛々しかった。

 公式戦で先発し敗戦投手となったのは、この試合が初めてだった。トントン拍子で進んできた小島が高校野球の本当の怖さを知った。

 敗戦から2日後、新チームがスタートした。夏の甲子園メンバーで2年生は小島だけ。森監督は「自分のことだけではなく、周りにも目を向けさせたかった」とエースを主将に据えた。

 もともと自分のペースで黙々とこなす性格で、大声を張り上げて周囲を鼓舞するタイプではない。実際、主将就任は野球人生で初めて。エースで主将、しかもこの時期は3番打者も担った。練習から生活面、全てで引っ張っていかなければならなかった。

 だが「“特別”という言葉の意味を理解できてなかった」(森監督)。小島自身も「全て自分が解決しないとと思って、最初は周りに相談することもしませんでした」。背負う重圧が何倍にもなり、明らかに自分を見失っていた。

 肝心の投球も絶不調。秋季県大会では生命線の直球をことごとくはじき返された。3回戦で本庄第一に延長戦で敗れた9月26日、選抜大会2連覇の夢は早々に絶たれた。

 「何をやってもうまくいかなかったです」。葛藤の日々を送っていた12月19日。お手本になるべき立場にもかかわらず、部の規則を破りチームの規律を乱してしまった。

(埼玉新聞)

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