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「私の高校野球」浦和学院・森士監督(報知高校野球より)

報知高校野球(2005年9月号)の連載「私の高校野球」に浦和学院野球部の森監督が紹介されています。

◇「私自身が失敗作」が指導者としての原点 感動だった憧れの聖地

 私の指導者としての“原点”は「私自身が失敗作だ」ということです。私は高校、大学を通じて、選手としては世に出ることができなかった。頑張ったというだけでなく、それをいい結果に結びつける、選手の思いと能力を開花させるための手助けをする、ということが大事だと思います。

 甲子園には監督になってから何度か来させて頂きましたが、現役の上尾高3年生の春、センバツの甲子園練習で来た時の事は今でも忘れられません。私はベンチ入りメンバー15人に入れませんでしたが、大会前の甲子園練習に参加できる25人には加えてもらいました。雨のため、練習は室内練習場で行ったのですが、終了後にグラウンドに足を踏み入れることができました。階段を上がってベンチから出た瞬間、スコアボードがドーンと視界に入った。「これが憧れの聖地か」と感動しましたが、同時に「この衝撃を一年前に味わっていたら、随分変わっていたんじゃないか」とも思いました。その頃は右ひじ手術後、復活へ苦しんでいた時期。自分なりに頑張っていながら、実際にプレーする場所という意味では甲子園は遠い存在になりつつあったのです…。

◇小学校から抱えたヒジ痛 サイドスロー投手転向 中学時代は全国3位

 私は小学5、6年生の頃からいわゆる“野球ヒジ”でした。投げ方が悪かったんだろうと思うんですが、既にヒジ痛を抱えていた。少年時代から今でも、ヒジが曲がったままです。中学2年生の夏ですが、他に体の大きな速球派投手がいたこともあり、サイドスローに変えるように指導者から言われたんです。これが、腰の回転やバランスとかが私に合ったんでしょうね、ヒジ痛も消えたんです。それから自分なりのイメージの投球ができるようになった。中学生にとって横や下から投げる投手は打ちにくいし、カーブが結構曲がっていたから。浦和市(現さいたま市)の大谷場中学の時は、中体連主催の大会ではないんですが、横浜スタジアムで行った大会で全国3位に入ったことがありました。その時、1試合10奪三振を取って新聞に載った記憶があります。

◇上尾高で名将と出会う 監督は多くを語らず怖さもシゴキもなし

 高校は埼玉・上尾高に進みました。元プロ投手(西日本、西鉄、近鉄)で、名将といわれた野本喜一郎監督(1986年に逝去)率いる強豪校です。私は、中学までは投手としての本格的な指導を受けたことがなかった。高校では投手出身の監督さんに、より専門的で高度な技術を学んでみたいという気持ちがありました。ヒジの故障持ちで不安を抱えていたから、そういう人の指導を受けたらいいんじゃないかと…。

 実際に上尾に入学すると、野本監督は多くを語らず、しかし選手一人一人をちゃんと見ている方でした。高校ではサイドから段々アンダースローに近くなったんですが、技術面で教わったことといえば「外から中へ、腕を8の字に振れ」と言われたぐらい。怖いとか凄くしごかれたとかいう記憶はありません。監督も還暦を迎えられた頃で、ずっとベンチに座っておられる。練習終了後に選手がその前に並んで言葉を待つ。監督の言葉が週に7回、「ご苦労さん」だけなんて時もありました。

◇選手は監督の言葉に飢え監督は巧みな方法で向上心につなげていった

 ただし、監督はベンチの中で、選手が打席に入ると「相手投手はこうだよ」とか「ここはこうやっちゃあいけねえんだ」とか「こういう時はこうだろう」など一人でいろいろ喋るんです。でもその選手がベンチに帰ってくると何も言わない。周りの選手に聞かせると同時に、当事者にはチームメートが「監督がこう言ってたぞ」と伝えることになる。私たち選手にすれば、監督が自分のプレーをどう言っているのか気になります。そういう気持ちを、巧みに向上心につなげていたのかもしれません。私たちは常に、監督の言葉に飢えていた。仲間や来客の方から「監督がお前のこと、こう言ってた」などと教えてもらうのがとても嬉しかったですね。

 結局、私は高校時代、公式戦登板なし。1年時は腰痛に悩み、2年生の6月にはひじがパンクして手術。当時は手術などほとんどしない時代、まして高校生など…。病院の先生には「手を使わないスポーツに転向したらどうか」と勧められましたが、やっぱり野球を続けたかった。「仮に手術が成功しても、今までの7割の力までしか回復しない」と告げられた上で手術を受けました。

◇嬉しかった恩師の言葉 指導する立場になって監督の真意と辛さ理解

 3年生の最後の夏の前に投げられる状態になりましたが、どうも自分の思うような球が行かない。思い切って野本監督に「教えてください」とお願いすると「フォームが良ければいい球が行く訳じゃない。いい球が行くようになればフォームも良くなる」とおっしゃる。普通は逆だと思いますが「形を必要以上に気にするな」という意味だったんでしょう。悩んでいた気持ちが晴れたような気がし、実際、それで良くなったんです。自分が指導する側になった今、その通りだと思う時もあります。

 私は最後の夏にどうしてもベンチ入りしたかったけど、状況は非常に厳しかった。下級生でメンバー入り濃厚な選手がいました。私は野本監督に「彼と自分を勝負させてください」と訴えたんです。自分が指導者になった今、「監督にとって随分つらい事を言ってしまったなあ」と思います。でも後に、野本監督が「自分のキャリアの中で一番練習した選手は森だ」とおっしゃった、と人づてに聞いた時はホッとしたと同時に嬉しかった。これが、恩師の後を継ぐような形で今、指導者としてやっている事につながっているのかな、とも思います。

◇野本さんの遺志を継ぎ大学卒業後からコーチ 4年後に監督に就任

 私が東洋大2年の時に、野本監督は上尾から浦和学院に移られたんですが、その当時から「手伝わないか」と声をかけてくださいました。しかし、監督は私が4年生の時に亡くなられてしまった。それでも、卒業後はコーチとして浦和学院に来ることになりました。担当は主に投手。この時、痛切に思ったのは「いくらブルペンで形を整えても、結局は使い方。それによって人は育つ」ということ。戦略…つまり人の使い方や配置の重要性。また、私は投手出身なので「投手を育てる」ということに入り込み過ぎてしまう部分があったけれど、視点を少し変えて客観視する。「捕手の立場から投手を見て、声をかけてやる」という考え方も学びました。そしてコーチを約4年務めた後の91年(平成3年)8月、監督に就任しました。私は27歳になっていました。

◇就任翌年センバツ出場 覚悟はしていたもののキツかったのはその後

 監督就任直後の秋季大会で関東4強入りし、翌92年のセンバツに出場。ここでいきなり甲子園ベスト4。選手はよくやったと思いますが、私自身は怖いもの知らずで何もわからないまま上に行っちゃったという感じ。まあ、運だけでした。しかし、センバツから帰ってきて春、夏は県8強止まり。新チームで迎えた秋季大会に至ってはブロック予選敗退で県本戦に進めなかった。これはキツかったです。「必ず苦しい状況は来る。そこで消えるか、それともはい上がるかで監督としての真価が問われる」と覚悟はしていたんですが、それでも想像以上にキツかった。一番最初に好結果を出しながら、実体が伴わない。周囲は当然、その後はそれ以上の結果を求める。そのギャップがありました。今考えれば、新チームの作り方が甘かったんでしょうね。下まで目が行き届いてなかったし。あそこが、監督生活のポイントの一つだったと思います。結局、2度目の甲子園は94年夏になるんですが、これは積み重ねていったものが成果となって表れたものじゃないかなと感じています。

◇印象に残る坂元弥太郎 非凡な腕の振り、柔軟さ 人が変わった3年の夏

 お蔭様で、これまで春6度、夏5度甲子園に行かせて頂いた。最終的にプロに進んだ選手も何人かいます。その中で一番印象的だったのは2000年夏の坂元弥太郎(現ヤクルト)です。長い間停滞したというか一番、苦楽を共にしました。彼は1年生夏からベンチに入れていたんですが、最初はボテッとしたイメージの子でした。でも腕の振りやヒジの柔らかさが非凡だったので、早い時期から使っていました。2年生の夏には背番号1を背負ったもののプレッシャーで喘息の発作が出たりして。県の準決勝に先発しながら2回で降板。決勝は投げられなかったんですよ。3年生の5~6月も、練習試合に投げれば10点取られるような状態でした。試合に負けて帰ってくるとランニングをやるんですけど、仲間につるし上げられて「申し訳ないけど、俺は自信がないんだ」と泣いて謝ってました。それが夏の大会直前の練習試合、国士舘戦で初めて完投した。そこからですね。明るい兆しが見えたのは…。そして県大会が始まった途端、魂が宿ったように人が変わった。県大会を勝ち抜き、甲子園では19三振を奪うんですから(対八幡商戦)。

◇思い出の優れた選手たち 鈴木、大竹、須永、木塚 人間性でもモノが違う

 私のコーチ時代の教え子・鈴木健(現ヤクルト)には、打撃投手を務めた時にバックスクリーンに叩き込まれ、素材の違いを痛感しました。バットコントロール、逆方向にも本塁打できるパンチ力と柔軟性。高校時代までで言えば素材的には松井秀喜選手(星稜卒、現ヤンキース)より上だったのではないかと思います。他に、モノが違うと感じたのは大竹寛(現広島)と須永英輝(現日本ハム)。大竹は10勝から15勝できる投手になると思っています。入団時に、「広島のような厳しい練習をするチームはお前にピッタリだ」と言いました。初めて須永を見た時には「サウスポー版の大竹だな」と思いました。木塚敦志(現横浜)などは、今でも母校への気配りを忘れず、礼儀なども一番しっかりしています。人間性の面での成長は素晴らしい男ではないでしょうか。

◇「野本野球は生きている」夫人からの言葉に感激 継続させたい“イズム”

 前に述べたように、指導者になってからは野本さんと交わることはできませんでした。もっと監督として色々学ばせてもらいたかった。浦和学院の監督に就任して2~3年目でしたが、野本さんの奥さんの所に暮れの挨拶に行った時「野本野球は貴方の中で生きているよ。選手時代に野本を見ているだろうし、貴方が考え、やろうとしていることは全て野本野球なのよ」と言われた時、肩の荷が下りました。それからは、自分で意識しなくなりました。

 それでも、やはり「全員野球」を標榜するのは、野本さんの影響でしょうか。控え組も含め全員に気を配る、どの選手にも練習の場とチャンスを与える…。「プロに行くような投手を何人も育てられるのはどうして?」と聞かれるんですが、そんなに技術的なことを細かく教えたりはしないんです。そういえば、これも “野本式”かな、などと思います。見た目でいえばドッシリ構えていた野本さんが「静」なら、私は「動」。180度違うと思うんですが、「野本イズム」は根底に流れているんじゃないかと思っています。

(報知高校野球2005年9月号「私の高校野球」より)

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