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浦和学院・森士物語(1)師追い指導者の道 ベンチ逃した学生時代

 30年にわたって浦和学院高校野球部監督を務めた森士=おさむ=(57)。平成以降の埼玉高校野球界をけん引してきた名将は、今夏の第103回全国高校野球選手権大会を区切りに勇退した。春夏通じて甲子園に22度出場。2013年春の選抜大会制覇を最高成績に、通算28勝21敗(春20勝9敗、夏8勝12敗)を記録した。選手やコーチから「大将」と慕われ、浦和学院を名門に育てた指導者の足跡をたどる。

 森には公式戦の記録をつづった3冊のノートがある。「監督5年目の時、埼玉新聞の担当記者から『今、97試合目であと3試合で100試合ですよ』と言われてから書くようになった」。丁寧な字で選手のスコアや試合の総評などが事細かく書かれている。653試合、551勝99敗3引き分け。森が監督として指揮した30年間の生涯成績だ。

監督時代に試合後、毎回記録を付けていたノート

父の教え

 1964年6月23日、さいたま市(旧浦和市)で生まれた森は、幼少期から浦和競馬場の空き地で三角ベースに明け暮れた。市立谷田小2年生の頃、軟式野球チームに入団して本格的に始めると、週末には40歳離れた父克が練習の手伝いに来るなど親子二人三脚で汗を流した。

 「父は野球経験者ではないが、剣道をやっていた人だから、あいさつなど礼儀に厳しかった」と振り返る森。「その教えが今となっては野球道として生きている」と、指導者としての根幹の形成には父の影響が大きかった。

名将と出会う

 市立大谷場中に進むと、野球部監督の指手正之の下で鍛錬を積んだ。次第に指導者への憧れを抱くようになり、エース投手として頭角を現すと、県内屈指の強豪だった上尾高へ進学した。

 だが、けがに泣く。1年生夏に腰を痛め、2年生の時には利き腕の右肘に遊離軟骨を発症し手術。冬に復帰して練習を積んだが、3年間一度もベンチ入りできなかった。ただ、後に森を浦和学院へ導く監督の野本喜一郎は生前、「一番練習していたのは森だった」と周囲に明かしていたという。野本は元プロ野球選手で、埼玉を代表する名将として、既に広く知られていた。

 当時から野球を極める姿勢は強く、森は進路を野本に相談。「野球を突き詰めるか、教員になるために勉強するか」と話し合った。そして、野球を探求するため、東都大学リーグの強豪・東洋大へ進んだ。

野球を探求

 1、2年生の時は分析班として東都リーグの偵察のため、神宮球場へ通った。普通は4、5人で担当する仕事を森は一人でこなした。ビデオを撮影し、スコアやバッテリーの詳細なデータを収集。「(パソコンが普及した)現代だったら一瞬でまとめられるけれど、手作業でやったからこそ勝負のポイントが分かるようになった」と振り返る。大学4年間は、選手としてはベンチ入りすらかなわなかったが、試合展開の予測能力はこの時に培われたという。

 そして、2年生だった1984年。浦和学院の監督に転じていた野本から、「大学を卒業したらコーチをやらないか」と誘われる。野本はチームを86年夏に甲子園初出場に導くが、聖地で指揮を執ることなく病気のため死去。だが、森は卒業後の87年、恩師との約束を果たすべく浦和学院のコーチとなり、指導者生活をスタートした。

(埼玉新聞)

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