「あのカーブは父親譲りだな」。2年連続で甲子園出場を決めた浦和学院監督の森士が笑う。その視線の先には、ブルペンで練習する長男の大(16)の姿があった。息子は父親の背中を追うように同じ投手の道を選び、そして父親の目指す道をともに歩み始めた。親子の夢はただ一つ。悲願の全国制覇だ。
士がまだ浦和学院コーチだった1990年12月、体重3420グラムの大きな男の子が誕生した。父親と同じ画数の「大」と名付けられた。士は翌年8月、27歳の若さで監督に就任。多忙を極め、家族と一緒に過ごせる時間はほとんどなかった。それでも大の周りには、いつもボールやバットが転がっていた。そして若き指揮官は92年、春の高校選抜大会への切符を手にする。1歳だった大も母親の志奈子とともに、初めての甲子園を訪れた。
士は試合の前日、甲子園で大を抱き上げた。「ここが甲子園だ。いつか2人で来ような。お前も覚えておけよ」。大はきょとんとグラウンドを見ていた。そして父は甲子園初采配でチームをベスト4に導いた。
あれから15年。その言葉の通り、大は父親とともに甲子園の土を踏んだ。自慢のカーブに切れのある直球を持ち、2年生ながらベンチ入り。練習試合では日大山形や慶応を完封するなど実力は折り紙付きだ。
だが息子の入学に、士は複雑な心境だった。「3年間は父親がいないと思え」と告げた。練習では息子を「森」と呼び、他の選手よりも厳しく接する。「お前と同じ成績の投手がいればお前は使わない」とも言った。それは監督としてのけじめだった。
だが、大は士の厳しさに愚痴をこぼすことはほとんどなかった。「自分に一番厳しいので、なんで俺ばっかりと思うこともあった。最初はへこんだけど自分のために怒ってくれていると思うようになった」。
2人を陰から支える志奈子は「夫はこれまで大と一緒にいれず寂しい思いをしていたから、今は嬉しいんじゃないかな。大も厳しくされてつらいと思うけど、良い仲間に出会えて顔が本当に生き生きしている」と話す。
1歳だった大が春の甲子園に応援に行った際、浦和学院は4強まで勝ち進んだ。だが夏の甲子園では、士は7大会連続で2回戦を突破できない辛酸をなめている。父親のその悔しさを誰よりも知る大は、甲子園のスタンドで力強く言った。「最高の親孝行は全国制覇すること」(敬称略)
(埼玉新聞)