春夏合わせて20回目の甲子園挑戦で、ついに日本一の座をつかんだ浦和学院。この選抜では計5試合で47得点、失点はわずかに3。完勝といってもいい総 合力を見せつけた。創部当時は市内の地区大会で勝つのがやっとだった同校野球部。名将の薫陶を受けた指導者と、投打に記録的活躍を見せた選手たちの歯車が かみ合って、同校の歴史に新たな1ページを刻んだ。
甲子園常連校として20年以上にわたり県内の高校野球界を牽引(けんいん)してきた浦和学院。だが、全国制覇までの道のりは長く険しかった。
同校野球部は昭和53年に創部。約30人でのスタートだった。初代監督を7年間務めた栗野拓哉教諭(57)は「道具も場所も、まともなものはなかった」と 振り返る。野球部専用グラウンドはなく、近所の貸しグラウンドで練習。校内では小さなスペースを見つけてバットを振った。成績も旧浦和市の地区大会で優勝 するのがやっとだった。
そんな浦和学院が強豪校として名をはせる礎を築いたのが野本喜一郎元監督だった。県立上尾高校の監督を22年間務め、同校を6回甲子園に導いた名将が59年、浦和学院の監督に就任した。
61年夏、同校を初の甲子園に導いたが、すでに闘病生活を続けていた野本さんは病床で観戦。ナインが4強入りする姿を見ることなく64歳でこの世を去っ た。「私は野本監督がこの地に宿した魂の火を消さないようにやってきただけ」。森士監督はこう語る。「高校野球は『男の子』が『男』に成長する最後のと き。だから面白いんだ」。野本さんから高校野球の魅力も教えてもらった。
森監督は平成17~23年の間、春夏合わせて5回の甲子園出場 を果たす。しかし、いずれも初戦敗退。「全国で浦学は勝てない」。心ない言葉が聞こえることもあった。「指導者としてお前の方がやれる」。そんなときは野 本さんの言葉を思い出し「やるしかない」と自らを奮い立たせたという。
そして迎えた20回目の甲子園で、選手たちが躍動した。中でも4 番・高田、エース小島は最高の出来だった。同部の歴史に刻まれた新たな1ページ。森監督は近く野本さんの墓前を訪れ、こう告げるつもりだ。「おかげさまで 何とか日本一になれました。夏の甲子園という本当の大きな目標のため、見守っていてください」。
(産経新聞埼玉版)