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第87回センバツ:4強入り 浦和学院支える元プロ三浦貴コーチ

 センバツはベスト4がそろった。

 テレビ中継でチェックしてしまうのは「裏方さん」の表情だ。ここで言う「裏方さん」と言うのは、「コーチ」のこと。試合前ノックや、応援姿がたまに映ることがあるからだ。強いチームには優秀なコーチがいる。陽の目を浴びることは少ないが、「選手のために」と休みなく献身的に働く姿に、敬服の思いが止まらない。

将来の夢は「プロ野球選手か、教師になること」(96年発行、日刊スポーツ出版社刊、輝け甲子園の星より)

将来の夢は「プロ野球選手か、教師になること」(96年発行、日刊スポーツ出版社刊、輝け甲子園の星より)

 雑誌「輝け甲子園の星」で担当した浦和学院が、準々決勝で県岐阜商を破り4強入りした。ここにも光る「裏方」がいる。元プロ野球選手のコーチ、三浦貴さん(37)だ。浦学選手時代はエースで4番。ブルペン練習場がなかった当時、取材に行くとビニールハウスの中で森士監督とマンツーマンで投球練習する姿があった。当時の見出しは「生意気エース」。投打の中心として「誰にも負けたくない」オーラを発している選手だった。アンケートに「将来の夢は、プロ野球選手か、教師になること」と書いてくれた。

 強気なエースはその後東洋大に進み13勝をマーク。00年秋に最高殊勲選手、最優秀選手、ベストナインを獲得しリーグ優勝。その秋、巨人にドラフト3位指名。同期の阿部慎之介とバッテリーで開幕1軍入りし、中継ぎとして3勝をマーク。そのあと打者に転向し、西武移籍を経て09年引退。“二刀流”を歩んだプロ9年間だった。

 三浦さんの人生が大きく動き出したのはこの後だ。もう一つの夢、「教師」への挑戦が始まる。

練習後の一コマ。選手たちをいい形で和ませるのも三浦さんの役目だ。(左から、西野真也、津田翔希、小倉匡祐、氏丸直岐、廣田悠樹、臺(だい)浩卓)

練習後の一コマ。選手たちをいい形で和ませるのも三浦さんの役目だ。(左から、西野真也、津田翔希、小倉匡祐、氏丸直岐、廣田悠樹、臺(だい)浩卓)

 4トントラックの運転手をしながら、週5日東洋大2部に通って教職課程を受講。12年に教員免許を取得し、4月に浦和学院の社会科教諭になった。この時、2年間の教員歴がなければ野球部を指導できない規定だったが、プロ経験者の学生野球資格回復条件が大幅に緩和され、翌年7月にコーチ就任。「新制度適応第1号」として話題になった。

 現在は、公民教諭として週10コマの授業と、1年生の担任を持つ。授業でも、グラウンドでも、そして寮でも選手と行動を共にし、小さな心の変化や、体調の異変に目を配っている。「選手を預かる身として、毎日何が起こるかわからない緊張感があります。礼儀、挨拶、私生活からきちんとしないと、チームワークは生まれません」

 1回戦、龍谷大平安に勝利した時、三浦さんはコーチになって初めて母校の校歌を歌った。「(完投の)江口が辛抱してよく投げてくれた。野球ができなかった分、甲子園で暴れて欲しいです」。原因不明の目の病気で約1年間苦しんだエースを称え、自身が果たした96年春夏甲子園出場以来の校歌に、酔いしれた。

取材時は選手と同じ丸刈り。高校時代は「モテモテNo.1選手」だったが「過去の話ですよ」と今は照れ笑い

取材時は選手と同じ丸刈り。高校時代は「モテモテNo.1選手」だったが「過去の話ですよ」と今は照れ笑い

 浦学の取材に行くと、三浦さんがいい形で選手をリラックスさせているなと感じる。写真撮影の時は自分が受けた経験を活かし「もっと笑顔出せよ〜!」と横からアドバイス。

 「プロ野球選手ってどんな生活でしたか?」

 「有名人と会ったことありますか?」

 練習後は選手たちの質問に、白い歯を見せて答えることもある。怒る時はもちろん怒る。しかし、自分の時とは違う指導法を考え、模索している。「同じ『怒る』にしても、今の子たちはなぜ怒られているか説明することが必要。監督の考えも、わかるように伝えないといけない。まだ2年目ですので、日々勉強です」

 ここまで3試合。高い集中力で接戦を勝ち抜いている浦学の選手たち。「裏方として、縁の下の力持ちになって頑張りますよ」。2年ぶり2度目の優勝まであと2勝。裏方として、全力で支える。

(日刊スポーツコラム)

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