1986年・第68回全国高校野球選手権準々決勝 浦和学院4-0高知商
強打線とWキャスト
浦和学院の代名詞と言える「強打」が印象付けられたのは、今から32年前の夏。後にプロ野球の西武とヤクルトで189本の本塁打を放った2年生の4番鈴木健を筆頭に半波和仁、伊藤弘之の両3年生を加えたスラッガートリオをそろえ、1986年の第68回全国高校野球選手権で、初出場ながらベスト4入りした。
当時の打線は「浦学史上最高」との呼び声も高い。なにしろ、埼玉大会、甲子園大会を通じて12試合戦い、計15本塁打、86打点をたたき出したのだから。
しかし、決して、打つだけのチームではなかった。躍進には、強打とともに背番号11を背負った2年生左腕、谷口英規の快投があった。”伝家の宝刀”を駆使して、全国の強打者たちを翻弄(ほんろう)した。あの夏、チームを率いた名将・野本喜一郎が死去。「野本さんと出会えてなかったら、あの投球はできなかった」。自身の才能を引き出してくれた亡き恩師に捧(ささ)げるピッチングだった。
落ちるシュート
上尾を春夏合わせ6度の甲子園出場に導いた野本が84年に浦和学院の監督に就任して3年目。野本は「3年目で甲子園を狙えるチームをつくる」という公約を見事に果たす。これまで県大会3回戦が最高だったチームが個性を生かす野本の指導で花開く。埼玉大会で初優勝。強打もさることながら、2年生投手の急成長が躍進の原動力だった。
春までのチームのエースは3年生木村健治だった。初優勝した春季県大会で谷口は準決勝、決勝に登板してない。谷口の持ち球は最速130キロほどの直球とカーブ、スライダー。本人いわく「普通の左投手」。しかし、ある”魔球”を体得したことで、絶対的な投手へと変貌する。
きっかけは野本の助言だ。春季大会後、谷口は野本からシュートボールを教わる。それに改良を加えたのが当時、東洋大4年生でコーチに来ていた森士(現浦和学院監督)。投手出身の森は上尾時代の野本の教え子。自身もシンカーを放っていたことから、シュートの握りから投げる際の指の「抜き方」を伝授した。
上から投げると、逃げながら沈んでいく、右打者に有効で独特な軌道を描いた。当時は投げている投手はおらず、「落ちるシュート」と表現された。練習試合で試した谷口は「使える」と確信。スクリューボールの誕生である。
突然の悲報
春の関東大会後、野本は病気で入院した。当時部長だった和田昭二が指揮を執ったが6月、常総学院(茨城)との練習試合に野本が入院先から訪れた。入院中、試合に顔を出したのはこの一度きり。谷口の投球を自らの目で確認した野本は和田に「夏は谷口でいく」と告げた。谷口は、この話を最近になって知った。
指揮官の目に狂いはなかった。埼玉大会が開幕すると、谷口は全7試合中6試合で先発。計42回、防御率1・71と期待に応えた。
しかし、ナインに突然の悲報が届く。埼玉大会からベンチに入れなかった野本は、甲子園開幕日の8月8日午後11時2分、膵臓(すいぞう)出血でこの世を去った。64歳だった。初戦の泉州(大阪)戦前日の9日に知った選手たちは号泣。谷口は「野本監督のためにという思いは、もちろんあった。より、チームが一つになった」。
「僕のピッチングを見ていてください」。谷口はベンチに置かれた野本の遺影にこう誓って泉州戦のマウンドに立った。初陣の緊張をものともせず11奪三振、3失点で完投。打線も全員安打となる18安打で10得点を挙げて快勝した。
変幻自在
2回戦の宇都宮工(栃木)は4―0で快勝し、谷口は5安打完封。スクリューが威力を発揮し「狙って空振りを取れた」と11奪三振。主将で女房役の黒須隆も「僕が谷口にリードされた感じ」と後輩に脱帽した。3回戦の広島工戦でも4―1で完投勝利。
準々決勝の高知商戦(4―0)は4安打に抑え、2度目の完封劇。この試合は巧みな”投球術”が光った。高知商の4人の左打者を意識。スクリューの割合を減らし、走っていた直球を増やして勝負した。右打者には内角を突き、外角に落とす。走者を背負うと早めにスクリューを投じ、カウントを優位に進めた。
まさに変幻自在。決め球にもなり、カウントも稼げるスクリューは投球に幅をもたらした。一塁を守っていた鈴木も「頭のいい投手で緩急をうまく使っていた」と絶賛した。
チームは準決勝で松山商(愛媛)に敗れたが、埼玉県勢にとっては、75年の上尾以来の4強入り。谷口は「あのボールがあったからこそ、あそこまでの成績を残せた」。
結果より大切なこと
谷口さんには、あの夏、一つの心残りがあった。
甲子園初出場で4強は立派な成績。だが松山商との準決勝では1―1の六回に一挙10失点し、谷口さんもこの回、甲子園で初めてマウンドを譲った。競った場面で精神的なもろさが出て、集中が切れてしまった。「亡くなった野本監督に申し訳ない気持ちだった。もっといい報告がしたかった」
甲子園から帰ってきてからは肩痛に悩まされた。秋季県大会は第1シードながら初戦で所沢に敗れ、翌春は南部地区大会1回戦で負けた。春、谷口さんは左肩が回せないほどで、投げられなかった。
春季大会後は「夏にもう一回、甲子園に行ってやる。その意地しかなかった」。東京から通っていた谷口さんは当時、投手コーチだった森士さんの、さいたま市内の実家に下宿。「夜の浦和競馬場を走りましたね。中が通れるようになっていたので」という秘話を明かしてくれた。
最後の夏も決勝では痛み止めの注射を2本打って先発。118球を投げ切り、チームを埼玉大会2連覇に導いた。「腕がちぎれるまで投げてやる」。支えたのはエースの意地。貫いてきた信念が実を結んだ。
背番号1を付けて帰ってきた甲子園では、大リーグでも活躍した伊良部さん(故人)の2ランなどで尽誠学園(香川)に初戦で敗れたが、どこか晴れ晴れとしていた。
当時の谷口さんは「肩の調子は最高でした。思い残すことはありません。この1年は肩の故障で苦しかったけど、それを乗り越え、甲子園に来られたことは大きな自信になりました」と言葉を残した。
「やりたいことはできて、すがすがしかったですね」。31年前を振り返った谷口さんの今の思いだ。そして「自分の足元を見つめる意味でも、いい1年間でした。今思えばですよ」と締めくくった。
結果ももちろん大事だが、それ以上に過程が大事―。高校野球の原点を、谷口さんの歩みが教えてくれた。
野球への恩返し今も 上武大・谷口英規監督
甲子園では投手で輝いた谷口さんは高校卒業後、東洋大の3年次に野手に転向。打者としての素質を開花させた。
社会人野球の東芝へ進むと1993年のアジア選手権では日本代表に選ばれ、同年の都市対抗大会では日本石油の補強選手として、初戦から決勝までの5試合連続6本塁打を放って優勝に大きく貢献。最優秀選手に贈られる橋戸賞を受賞した。
98年に選手を引退後は東芝で社員として働いた。半導体の営業を担当し、主任として仕事を覚えてきた時に上武大からオファーが舞い込んだ。
「いずれは、野球の指導者をやってみたいとは思っていた」が、未知の地に飛び込むか迷った。「やったらいいんじゃない」。背中を押してくれたのが妻幸子さんだった。
30歳だった2000年1月に監督に就任。当初はやんちゃな選手が多く、野球の技術よりもまずは寮生活やあいさつ、マナーから着手した。
心の強さを植え付け、13年に12度目の挑戦で全日本大学選手権を制して悲願の日本一に。3度宙を舞い、男泣きした。母校の浦和学院が春の選抜甲子園で初の全国制覇を成し遂げた、その年の6月だったのも何かの縁だった。
プロ野球選手を11人輩出するなど上武大を強豪に育て上げた谷口さんの原点は、やはり高校時代。「甲子園に出られなかったら野球をやめて、板前になる予定だった。親戚の店を継ごうかなと」
それが2年連続で甲子園に出場。2年生の時はベスト4に進出し、「人生を変えてくれた場所」と敬意を表する。「本当に高校野球には感謝しかない。何か、野球に貢献できればいいし、野球に恩返しがしたいですね」。谷口さんが指導者を志したきっかけであり、今も変わらぬ信念だ。
谷口英規(たにぐち・ひでのり)
上武大野球部監督。浦和学院高では2年連続で夏の甲子園に出場。2年次には全5試合に先発し、2完封するなど4強入りに貢献した。東洋大3年次に野手転向。東芝に進み、1993年の都市対抗大会では補強選手として5戦連続6本塁打を放ち橋戸賞を受賞。94年にはIBAFワールドカップ日本代表で銅メダルを獲得。2000年1月から現職。13年には全日本大学選手権初優勝に導いた。左投げ左打ち。熊本県出身、本庄市在住。48歳。
(埼玉新聞)