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<浦学新時代>’22センバツ 野球部の歩み(上)「3年で甲子園」実現 礎築いた野本喜一郎さん

【写真】浦和学院ナインを指導する野本喜一郎さん=1985年7月

 第94回選抜高校野球大会に7年ぶり11回目の出場となる浦和学院(さいたま市緑区)。学校創立と同年に創設され、2022年に創部から45年目に入る野球部は、県内最多となる春夏通算25回目の甲子園出場を重ね、多数のプロ選手を輩出した。黎明(れいめい)期の部を育てた野本喜一郎さん(1922~86年)、21年夏で勇退した森士(おさむ)前監督(57)ら名将の存在と埼玉の高校野球史を振り返る。

名将の元に有力選手続々と

1986年夏の甲子園で泉州(大阪、現近大泉州)を降し甲子園初勝利を挙げた浦和学院ナイン

 創部(1978年)当時、県内の高校野球は公立の上尾や所沢商などが強さを誇っていた。「浦和の名がついた学校で甲子園に行きたい」。学園創設者の高橋康造・初代校長は野球に熱い思いがあり、学園のシンボルとしても野球部を強くしたいと願っていたという。しかし新興の浦和学院は創部6年目の83年まで、初戦や2戦目での敗退が続いた。

 勝ち進めない中で84年、3代目の監督として迎えられたのが当時61歳の野本喜一郎さんだ。野本さんは西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)などで投手だった元プロ選手。53年に現役引退後、58年から共立上尾商(60年に上尾となる)で監督を務め、春夏計6回の甲子園出場に導いた、名将と名高い指導者だった。

 「3年で甲子園に連れて行く」。野本さんは3年計画を公言してチーム強化に乗り出す。野本さんに指導を受けたいと、中学野球の有力選手が続々と集まった。

 およそ3年の間に、現在に至る礎が築かれたという。91年から30年間にわたりチームを率いた森前監督が「野本さんの力なくして浦学の歴史は語れない」と断言するほどだ。

 野本体制3年目の86年、浦和学院は「公約」通りの快進撃をみせる。春は県大会を制し、春季関東大会に初出場で4強入り。第1シードで臨んだ夏の埼玉大会は、準決勝で秀明、決勝で大宮工を降し、甲子園初出場を果たした。県内の私学で2校目、「浦和」の名を冠する高校では初となる大舞台。しかし、そのベンチに野本さんの姿はなかった。

 野本さんは86年春に体調を崩し、7月上旬に入院。夏の埼玉大会は監督代行に指揮を委ね、優勝後、監督を辞任した。有言実行の甲子園初出場だったが、開幕日の8月8日、初戦を見届けることなく64歳で息を引き取った。

 初舞台の甲子園では、後に西武入りする鈴木健やエースの谷口英規(現上武大監督)ら2年生選手が活躍。3回戦で広島工(広島)、準々決勝で高知商(高知)を破り、準決勝で松山商(愛媛)に敗れた。ベスト4は浦和学院にとって現在も夏の甲子園の最高成績だ。

 鈴木、谷口が3年となった87年夏の甲子園は2年連続出場。初戦の2回戦で、伊良部秀輝を擁する尽誠学園(香川)に敗退した。

 その後、90年代に入ると、県内の高校野球界は私学全盛の時代を迎える。

(毎日新聞埼玉版)

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