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<浦学新時代>’22センバツ 野球部の歩み(下)強豪校の名、不動に 30年にわたり采配、森士前監督

【写真】1992年、初出場のセンバツで指揮を執る森士前監督

選手への思いやり「全員野球」

 浦和学院を初の甲子園に導き、礎を築いた野本喜一郎さん(1922~86年)。強豪校の名を不動にしたのは、2021年夏まで30年にわたり采配を振った森士(おさむ)前監督(57)だ。

 森前監督は野本さんの「後継者」。上尾高で指導を受け、高3になる82年春、同校はセンバツに出場するが、自身は故障が続き3年間一度もベンチ入りできなかった。卒業時「指導者を志したい」と相談、野本さんが教えたこともある東洋大に進学した。大学2年だった84年、野本さんが浦和学院監督に転身。「手伝わないか」と声を掛けられ、卒業後はコーチとなることが決まっていたが、大学4年の86年夏、野本さんは亡くなった。

 約束通り、87年から浦和学院コーチに。91年8月、27歳で監督に就任した。

 当初からモットーにあるのは「全員野球」。「(自分自身)高校、大学時代に背番号をつけられなかった。そうした選手への思いやりの象徴だった」と振り返る。就任直後の91年秋に初の秋季関東大会で4強、92年春には初のセンバツ出場。準々決勝で育英(兵庫)を倒し、ベスト4入りを果たす。

 順風満帆のスタートに映るが、森前監督自身は「『野本野球』継承のため模索していた」という。恩師を亡くした後に指導者として歩み始め、指導する立場で野本さんから学ぶことがかなわなかったからだ。そんな時、野本さんの妻俊子さんに「あなたが思い描いたこと全てが『野本野球』だ」と語り掛けられ、衝撃だったという。「『森野球』と称するなら、それは『野本野球』でもある。恩師といでたちは違ったが、思いは常に同じだった。だからやり続けられた」

 活躍は続く。95年秋季関東大会で初優勝。後に巨人、西武でプレーする三浦貴(現浦和学院コーチ)、横浜入りする石井義人らを主軸に、96年は春夏連続で甲子園出場。98年春のセンバツにも出場、ベスト8に入った。当時の高間薫部長(現法人事務局長)は「この頃から甲子園常連校として知られるようになった」と思い起こす。「監督が強いチームを目指すなら、私はセンバツに選ばれるのにふさわしい、良いチームを目標に選手を育てた」

2013年のセンバツで初優勝し、マウンドに集まって喜ぶ浦和学院ナイン=阪神甲子園球場で4月3日

 創部35年目の2013年、3年連続9回目出場のセンバツでチームは初の決勝進出。2年生エース小島和哉(現ロッテ)の好投と18安打の猛攻で、済美(愛媛)を17-1で圧倒し、春夏通じて初の全国制覇。センバツ優勝は、県勢としては第40回大会(1968年)の大宮工以来45年ぶりの快挙だった。

 森前監督は21年夏を最後に勇退するまで、春夏計22回の甲子園に導いた。「プレッシャーは果てしなかったが、前に走り続けるしかない30年だった」

 21年秋、新たに就任した森大(だい)監督(31)は森前監督の長男。投手として浦和学院に進み、在学中の同校は3年連続甲子園出場。早大、社会人野球の三菱自動車倉敷オーシャンズを経て、母校のコーチ、部長となった。監督就任直後の秋季関東大会で4強入りし、センバツ出場が決まった流れは、森前監督のスタートとも重なる。

 「まずは『頼らずやれ』と伝えている」という森前監督。「思ったことをやれば、形は変わっても彼の中にちゃんと宿っているものがある。去年と同じ、父親と同じことをしても勝てない。チャレンジしていくことが伝統になる」

(毎日新聞埼玉版)

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