◇高校野球 大舞台を楽しんで |
野球の独立リーグ、ルートインBCリーグに今季初参戦した熊谷市を本拠地としている埼玉県民球団「武蔵ヒートベアーズ」。武蔵ヒートベアーズの小林宏之監督代行と石井義人打撃コーチは埼玉高校野球界で名をはせその後プロ野球で活躍。第97回全国高校野球選手権埼玉大会が開かれている中、元高校球児で現在は後進の指導に当たっている小林監督代行と石井コーチが高校時代の思い出などを語り合った。(司会進行・友清創埼玉新聞社運動部長)
◇「一生の友、仲間を大事に」「緊張すると結果でない」 |
―公式戦の後期が始まりました。前期は2位で終わりましたが、後期は1位を目指すということになります。
小林 先発ピッチャー次第だと思います。前期の後半は接戦もだいぶものにしてきました。接戦の試合をたくさん経験していけば、全選手のレベルも上がってくる。いい戦いができるのではないか。
―埼玉出身の2人は浦和学院と春日部共栄で高校時代から活躍されました。2人は1995年秋、関東大会の出場をかけて県大会準決勝で対戦しています。
小林 あの試合は何となく覚えています。
―当時、浦和学院と春日部共栄は埼玉の覇権を争っていました。
小林 私が中学3年生の時に共栄が甲子園で準優勝していまして、それをみて入ってきた同級生、メンバーが多かった。うまい選手もたくさんいましたし、甲子園に行けるだろうなと思っていました。浦和学院にも素晴らしい選手がたくさんいました。
―浦和学院にはライバル心はあったんですか。
小林 もちろん、最大のライバルだった。1年生の夏も結局、決勝戦で浦和学院に負けてしまいました。
―石井さんは1年生の時に甲子園に出場しています。
石井 ベンチに入っていました。
―当時、春日部共栄の小林投手のことは。
石井 知っていました。絶対に負けてはいけない相手だというのは自分のなかにありました。
―小林さんは浦和学院の石井選手については。
小林 同じ学年で1年生からベンチに入っていましたので気になっていました。
―96年春の大会では浦和学院と春日部共栄が県大会決勝で戦っています。
石井 負けています。
―春日部共栄が勝ちました。この時は小林さんが先発しています。2人は対戦しています。
小林 打たれているという思い出しかないです。
石井 私は打ってないと思います。
―その年の夏の大会は春日部共栄が第1シードで浦和学院が第2シード。両校は決勝で戦うと見られていましたが、春日部共栄が準々決勝で聖望学園に敗退しました。
小林 夏の大会前に行った聖望学園との練習試合では大差で勝ちました。その時の油断がみんなにあったのだと思います。あの時は聖望学園のピッチャーが非常に良かった。完ぺきに抑えられました。
―春日部共栄が負けたことについては。
石井 まさかという思いでした。共栄が勝ち上がってくると思っていました。
―決勝戦は浦和学院と大宮東が対戦し、浦和学院が優勝しました。石井さんは夏の大会2回目の甲子園出場となりました。
石井 甲子園ではいつも1回しか勝てませんでした。
―石井さんにとって甲子園は。
石井 甲子園は楽しむところ。ご褒美ではないですが、そういうところだと思っています。優勝するということはもちろんありますが、大舞台を楽しまないとつまらないという思いでやっていました。
―1年生の時から甲子園に出場しています。甲子園は日々の苦しい練習をして勝ち取ったものです。
石井 そういうこともあると思います。ただ、1年生の時は楽しむことが出来ませんでした。3年になって最後の夏の甲子園では楽しみました。
―高校3年間、勉強し野球もやってきました。3年間がその後の人生に影響を与えていますか。
石井 厳しいところがあったからこそ成功できたということはあると思います。
―小林さんは高校3年間を振り返ってどうですか。
小林 甲子園には一度もいくことが出来ずに高校生活が終わりました。きつかったという思い出しかないです。もちろん甲子園を目指していましたが、高校3年の時に監督さんが甲子園だけでなくもっと上のプロを目指して練習に向かったほうがいいという話をしてくれました。そこからプロ野球選手になるということを目標に練習が出来ました。監督さんの言葉は当時の自分にとってすごく良かったです。
―甲子園への思いは。
小林 強かったです。3年間、甲子園に行くために努力しました。寮生活だったが、休みも月に1回あるかないか。ずっと野球づけでした。
―プロ野球選手となって甲子園のマウンドに立った時は。
小林 めちゃくちゃうれしかったです。ロッテ時代ですが、交流戦で阪神戦に先発し甲子園のマウンドに立ちました。ここを目指していたんだなと思いながら投げました。気持ちよかったです。
―高校球児はみんな甲子園を目指していますが、甲子園に行けるのは一握りです。
小林 自分がどう練習したらうまくなれるのか。自分自身で考えることが大切だと思います。
―石井さんはどうですか。
石井 とにかく自分を信じることが一番大事なことだと思います。自分がやってきたことを自信を持ってしっかりやること。そうすれば、良い結果につながると思います。
―毎日の厳しい練習のなかで心が折れそうになったことはありますか。
小林 何回もあります。
―どう、乗り越えたのですか。
小林 寮生活だったのですが、ベットのなかで耐えるしかなかったです。上級生になると少しは練習も任せてもらえるので、プロになるためにはと思いながら練習していました。私自身、プロ野球選手という目標がありましたので、そこに向かっていると気持ちを切りかえていました。
石井 1年生の時はなんとか見返してやろうという思いでやっていました。
―石井さんはもくもくとやるタイプですか。
石井 集中してやりたい方なので、練習はもくもくとやっていました。自分自身に課題を設定したりしていました。
―小林さんは初めからピッチャーですか。
小林 ピッチャーは中学2年生からです。内野手でしたが、当時のエースがコントロールが悪かった。私はコントロールは良かった。
―高校の時は140キロぐらい出ていました。
小林 苦しい冬のトレーニングが終わり春になってピッチングをすると速くなっているなと自分で感じる時がありました。
―石井さんはずっと内野手。
石井 ずっと内野手で左打ちです。初めてバットを持った3歳から左だった。
―2人は高校3年間野球に打ち込みました。後輩にメッセージを。
小林 同級生、野球のチームメイトは一生の友になる。仲間を大事にしてほしい。3年生は最後の大会になるので、自分のプレーを思い切ってやってほしいと思います。
石井 とにかく楽しんでほしいと思います。緊張していると結果はでません。
―武蔵ヒートベアーズは今年1年目です。是非、埼玉にベアーズありというチームになってほしいと思います。
小林 ずっと愛される球団になりたいと思います。いまはそのための基礎づくりだと思っています。私自身、なんとか力になれればと思います。
石井 とにかく、熊谷、埼玉の皆さまにベアーズを知ってもらえるように頑張ります。勝っていいアピールができるようにチーム一丸となって取り組みます。
◇石井義人(いしい・よしひと)1996年浦和学院高校4番打者として全国高校野球選手権出場、同年ドラフト4位で横浜ベイスターズ入団。2002年埼玉西武ライオンズ移籍、11年読売ジャイアンツ移籍。14年現役引退、武蔵ヒートベアーズ打撃コーチに就任。川口市出身。37歳。
◇小林宏之(こばやし・ひろゆき)春日部共栄高校卒業、1996年ドラフト4位で千葉ロッテマリーンズ入団。11年阪神タイガース移籍。14年埼玉西武ライオンズ移籍、現役引退。15年武蔵ヒートベアーズ投手コーチ、5月監督代行に就任。草加市出身。37歳。
(埼玉新聞)