記事の詳細



埼玉の50回大会史 群馬、栃木を抜けなかったが…

レベル上昇 意気さかん

第40回の選抜大会に初出場で初優勝した大宮工監督の山崎小二郎=1968年

 〈“特殊事情”と幸運〉 昨年秋の国体で大宮高優勝。投手金子勝美は早大にはいって将来を期待され、外野手吉田誠はドラフト第一位で東映に入団した。続いて今春の選抜に大宮工が優勝。苦戦を逆転で戦い抜いた不屈の闘志がたたえられた。埼玉の高校野球はいま、まっさかりのようにみえる。

 事実、大宮高の監督長谷川和男は「工業があれだけやれるなら、夏はぜひウチが……。埼玉はいまや全国第一級のレベルだ」と意気さかん。だが、秋の優勝はなにかと物議をかもした埼玉国体でのこと。大宮高は強化校に指定され、夏の大会後どこの学校でも行う新チームの編成も犠牲にして、練習に明け暮れての勝利だった。

 選抜優勝について大宮工監督山崎小二郎は「恐ろしいほどついていた。夏は春の優勝校としての面目にかけて甲子園出場を目標にするだけです」とひかえめだ。

“特殊事情”と幸運がもたらした二つのタイトル。これによって県下の高校野球が大いに盛りあがったのは事実だが、真の実力を全国にみとめさせるのは、これからのことである。

 〈不毛〉 全国中等野球には大正10年浦和中、熊谷中が関東大会に初参加。甲子園初出場は昭和24年の熊谷高。この間28年、著名な野球人はほとんど出ていない。この不毛の時代の一時期、県内で全盛を誇った川越中のエース家村相太郎(11年卒業と同時に新設の東京セネタースに入団、現在川越市で天理教布教師)はこう語る。

 「経済的にもめぐまれ、風土もきびしくない。こんなことで、ねばりがないのが県民性だと、私たちもずいぶんハッパをかけられた。くやしかったが、どうしても群馬、栃木を抜けなかった。だが最近、首都圏にはいって、人口がぐんぐんふえているので、がらりと変るのではないか。これからは強くなる……」とやはり希望を将来に向ける。この家村、戦後奈良県天理高の監督をつとめ、29、30年甲子園連続出場。そして34年母校川越高の監督となり、ついにその年母校甲子園出場の悲願を果した。

第33回大会準決勝の県和歌山商戦で、戦後初のノーヒットノーランを達成した熊谷の服部茂次=1951年

 24年甲子園初出場の熊谷高は、26年にも出場し、決勝に進んで平安高に敗れた。しかし準優勝は県内チーム最高の記録だ。監督は猛烈なノックで鳴らした高木正三で、いま熊谷市福祉事務所長。予選で完投経験のなかった服部茂次が四試合を投抜き、とくに準決勝の対和歌山商では、ノーヒット・ノーランを記録した。服部は28年大洋入り、33年から熊谷に近い行田市役所につとめたが、昨年7月慢性腎炎でなくなった。32歳だった。「選手時代からの持病で、無理がたたったのだ」と市役所の同僚は追憶している。

 〈断層〉 埼玉の高校野球には奇妙な断層がある。むかしから一貫した名門校がないのだ。強いチームは優秀な指導者とともに浮び、その退陣とともに沈滞した。県大会開始の昭和6年から11年ごろまで、常勝の川越中の基礎は早大出の伊丹安広が築いた。期間は7、8、9年。早大伝統の精神野球と最新の技術を持ちこんだ。

 そのころの対抗馬、浦和中の監督が、アメリカ帰りの英語教師前田宗男(故人)。全情熱、全生活を浦和中の野球にささげ、10年と12年には春の選抜に出場した。だが、いまの浦和高は進学校として名高く、野球は息をひそめた形である。

 35年野球部創立の新興上尾高は38年早くも選抜にコマを進めたが、そのときの監督が現東洋大監督の野本喜一郎(不動岡中、西日本パイレーツ、西鉄)41年辞任以来、上尾は早くも下降線だ。野本の教え子に東京オリオンズの内野手山崎裕之、東洋大のエース会田照夫がいる。山崎は「長島の再来」とさわがれ、39年秋のストーブリーグを大騒ぎさせたが、いまのところでは、まだ期待はずれだ。

 そしていま有力なのが、前記長谷川の大宮高、山崎の大宮工、斎藤秀雄の熊谷商、大脇和雄の川口工といわれる。四人とも教員。「異動になれば、そのチームは弱くなる」と見る向きが多い。このあたりが県全体の層の薄さを物語っているともいえる。

 なお、このほかの埼玉出身有力選手として、大洋で内外野をこなす松原誠がいる。飯能高の出身。

(1968年5月18日朝日新聞掲載)

埼玉の70回大会史 ライバル名将2人、県勢の躍進導く

2人のライバル監督が 不毛の地を躍進させた

名将として知られた元上尾監督の野本喜一郎。第68回大会(1986年)の全国選手権は浦和学院を初出場に導いたが、8月8日、開幕日の夜に息を引きとった

 61年8月8日、第68回全国高校野球選手権大会は甲子園で幕を開けた。初出場の浦和学院ナインも晴れやかに行進した。その夜、同校監督の野本喜一郎は上尾の病院で息を引き取った。すい臓出血、64歳だった。

 野本はその夏、県大会直前に体の変調を訴えて入院した。上尾の名将として知られていたが、59年春、浦和学院に移った。「上尾を去りたくて去ったのではない」と教え子たちはいう。教員ではなかった野本には去らねばならない複雑な事情があったらしい。浦和学院はわずか3年で強くなった。野本を慕って鈴木健(18)=西武=ら選手も集まったのである。甲子園で浦和学院はいきなりベスト4へ進出する。ヒノキ舞台で、育てたチームの指揮をとれなかった野本は心残りだったに違いない。

 野本は大正11年、埼玉県加須に生まれた。旧制不動岡中を戦時中に出て従軍、戦後は社会人野球、プロ野球の西鉄などで投手として活躍した。28年、プロをやめ翌年、加須から上尾に移ってふろ屋を始めた。だが、ふろ屋のおやじになり切れなかった。通りがかりに少年時代の山崎裕之(41)=解説者=を見つけ指導したりした。やがて町の人たちが経歴を知るところとなり、請われて上尾中や上尾高の面倒を見る。33年、正式に上尾の監督。同校はたちまち埼玉の強豪にのしあがった。その間、東洋大の監督も務め、松沼博久(35)=西武、達川光男(32)=広島、仁村徹(26)=中日=ら育てた選手は多い。

 選手の能力をみる鋭い目、沈着な指揮ぶり。ベンチ中央に座り、両手をきちんとヒザに置いてどんなピンチにもびくともしない姿は戦国武将を思わせた。

 野本に好敵手がいた。熊谷商の斉藤秀雄(64)=現県高野連事務局長=である。こちらは闘志むきだしの攻撃野球。対照的な二人の対決にファンはわいた。

 斉藤は野本より二つ年下。熊谷中―埼玉師範を出て熊谷商の教員になった。当初はバレーボール部監督。32年、野球部長、34年から監督兼任となり、一人で部を切り回した。

 野本と斉藤は公式戦で15度顔を合わせ、野本が10勝5敗と圧勝している。ただし、夏の選手権は斉藤の4勝1敗。斉藤は「うちにくる生徒は素質的に劣り、秋、春は勝負にならなかった」という。平凡な選手を時間をかけて鍛え、野本の上尾を倒す。斉藤のひそかな誇りだった。

 斉藤は38年に雨天練習場をつくった。いまでこそ珍しくないが、当時少なくとも埼玉にはなかった。着想から寄付金を集め完成までに3年。いまでは常識になっている筋力トレーニングをそのころすでに始めていた。「やりゃあできるよ」は斉藤の口癖だが、並々ならぬ工夫と実行力だ。

 首都圏にあって埼玉は長く野球不毛の地といわれた。夏の選手権で埼玉勢が甲子園の土を踏んだのは戦後、24年の熊谷が最初。しかし、その後の躍進はめざましい。第33回大会(26年)熊谷の決勝進出、第39回大会(32年)では大宮がベスト4に残った。43年、大宮工が選抜の優勝をさらう。人口増加により加盟校が21年の18校から62年には157校まで伸びた。底辺の拡大が埼玉のレベルを上げたといわれている。しかし、一方で最近は選手の分散が始まり、甲子園で勝てるチームづくりがむずかしくなった、という声もある。

 野本が世を去り、59年斉藤がユニホームを脱いだ。夏の甲子園、第55回大会(48年)に川越工を率いて準決勝へ進出した斎藤玉太郎(57)=同校教諭=も監督を退いて10年以上たつ。指導者はすっかり若返った。選手はさらに分散しそうだ。

(1988年5月20日朝日新聞掲載、年号は昭和)

埼玉の100回大会史 負の歴史を打ち壊し、大優勝旗

第68回大会(1986年)に甲子園初出場を遂げた浦和学院。強打者として知られた鈴木健がいた

 100回大会を目前に、ついに深紅の大優勝旗がもたらされた。99回大会(2017年)。埼玉大会を3連覇して挑んだ花咲徳栄が、全国の舞台を勝ち上がった。

 過去2年、東海大相模(神奈川)、作新学院(栃木)とその年の優勝校に敗れた経験から得た教訓は、「打てないと勝てない」。冬場は重さ10~15キロのハンマーを振り下ろすトレーニングで体幹や手首を鍛え、長打力が格段に増した。

 広陵(広島)との決勝は16安打で14得点。全6試合で9点以上をたたき出し、「優勝なし」という埼玉の負の歴史を、文字通り打ち壊したのだった。

 「公立王国」から、私学の戦国時代へ。埼玉の勢力図は、この30年あまりで大きく変わった。

 古くは熊谷、大宮。そして、1970~80年代前半までは熊谷商や上尾などの公立勢が覇権を争ったが、67回大会(85年)で立教(現立教新座)が県内の私立として初出場を果たすと、翌年には浦和学院が初出場で4強入りする快進撃を見せた。

 78年に開校した浦和学院を強くしたのは野本喜一郎。上尾の監督を長く務めた名将が84年春に浦学に移り、2年半で甲子園出場を決めた。しかし、のちにプロ野球西武などで活躍する鈴木健らが入場行進した開会式の8月8日、野本は膵臓(すいぞう)出血で亡くなった。

 ここから埼玉は80年開校の春日部共栄や82年開校の花咲徳栄など、私学がしのぎを削る時代へ突入する。

 浦学に続き、私学で夏の甲子園出場を果たしたのが春日部共栄だ。監督は47回選抜大会(75年)で高知の選手として優勝した本多利治。日体大を卒業してすぐの80年春、春日部共栄の初代監督に就いた。

2013年に選抜初優勝を果たした浦和学院の森士監督(中央左)

 高知で学んだ「足を使って少ない好機をものにし、守る」という野球で、73回大会(91年)に初出場。2年後には、2年生左腕の土肥義弘=元西武など=らを擁して全国準優勝した。

 浦和学院で野本の遺志を継いだのは上尾時代の教え子、森士(おさむ)だ。91年8月、27歳の若さで監督に就き、翌92年春の選抜では、いきなりの4強入りを果たした。

 他校も黙っていない。98年には強打者の大島裕行=元西武=がいた埼玉栄、99年は聖望学園が鳥谷敬=阪神=らを擁して初出場。2001年には、岩井隆監督が就任した花咲徳栄、08年には本庄一が初出場するなど、次々と私学が台頭した。

 一方で公立の出場は2校が出場した80回記念大会(1998年)の滑川(現滑川総合)が最後。2006年に鷲宮が剛腕増渕竜義=元ヤクルトなど=の奮闘で決勝まで進んだが、浦和学院の壁に跳ね返された。

 13年に浦和学院が強力打線で選抜を制覇。その浦学とともに頭一つ抜け出した存在となった花咲徳栄が、17年に県勢初の全国制覇を遂げた。47都道府県で28番目となる栄冠だった。

(朝日新聞)

拍手する


関連記事

  1. この記事へのコメントはありません。

  1. この記事へのトラックバックはありません。

応援ツイートは #uragaku

最近のコメント

カテゴリー

月別アーカイブ

ページ上部へ戻る