100年の心・白球がつなぐ絆(2)鈴木健さん
1986年、夏の甲子園。“超高校級”と形容された強力・浦和学院打線で4番に座り、チームを初出場でベスト4に導いたのが、のちにプロ野球の西武(現埼玉西武)とヤクルトで活躍した鈴木健さん=現野球解説者=だ。越谷市出身、地元・埼玉が生んだスター選手は、どのようにして左のスラッガーへと成長していったのか。その原点は高校時代の3年間にあった。
「鈴木健」の名が一躍全国に知れ渡ったのは、2年生の夏だった。
埼玉大会の初戦、吹上との2回戦で1イニング2ホーマーを含む3打席連続本塁打をマークするなど7試合で5本塁打をかっ飛ばすと、甲子園でも5試合で20打数9安打。毎試合安打を記録し、記念すべき初勝利(10-3)となった泉州(大阪)との1回戦では4安打3打点の固め打ち。4-0で快勝した準々決勝の高知商戦では、右翼席へ甲子園初アーチを描いた。
初出場でベスト4の立役者。2年生ながら堂々としたたたずまいが印象的だったが、当時を振り返り「2年生の時は無我夢中で、実は余裕はなかった」という。「春も県大会を勝ち、チームも強かったけど、甲子園に行くのは初めてのこと。とにかく無我夢中でやっていたので、あまり記憶に残ってないですね」と意外な答えが返ってきた。
3年次にも甲子園に出場し、1988年にドラフト1位で西武に入団した鈴木さん。2003年にはヤクルトに移籍し、プロ19年間で1446安打、189本塁打。ベストナインも西武、ヤクルトで1度ずつ獲得した。
名将の無言の教え 礎に
基盤の3年間
プロで19年間プレーできた要因について「“鈴木健”という一つのものをつくった初めての場が高校だと思う。そこで原点をつくり上げられたからこそ、プロにも行けたし、プロでも長く野球ができた。基盤になった3年間」。そう語る上で、なくてはならない存在がいた。浦和学院高時代の恩師で、泉州戦2日前の開会式当日に逝去した野本喜一郎監督だ。
名将と評される野本監督は積極的にアドバイスするタイプではなく、鈴木さんは「『ああしろ、こうしろ』と言われた記憶はない」と回想する。
だからこそ、「考える力の大切さを野本監督から学んだ」と実感を込める。1年次から長打力には定評があり、ライト方向へは大きな放物線を描いていた。一方でレフト方向、つまり流し打ちでは飛距離が出なかった。そこで「逆方向にホームランを打つにはどうしたらいいか。とにかく自分で考えた」。
体力的な問題と思えば筋力トレーニングをして、パワーアップ。技術面だと思えば、さまざまな打ち方、腕の出し方を試してみた。「いろいろな方法を取り入れ、『これ、いい感じだな』と思ったら続けた」。この繰り返しで強打者・鈴木健はつくり上げられ、高校通算83本塁打を放った。養った「考える力」は結果が出なければ職を失う、厳しいプロの世界でも生きたと確信している。
次代への思い
野球解説者の傍ら、年間50回ほど小中学生への野球教室も実施している鈴木さんは「興味を持ってもらって、『野球ってこんなに楽しいんだ』と長く続けてほしい」と褒めながら、時に笑いを入れながら指導する。と、ともに「野球は感性が大事。自分の感覚を練習の中で早く見つけましょう」。自らの成功体験を踏まえ、野球少年たちに常々、伝えている言葉だ。
この夏、100回大会を戦う埼玉球児へは「3年生にとっては高校野球の集大成。負けたとしても、学べることはたくさんある。それを今後の人生にどう生かすか。そっちを大事にしてほしい」とエールを送った。
鈴木健(すずき・けん)
プロ野球の西武、ヤクルトで活躍した左のスラッガー。現野球解説者。浦和学院高では2、3年次に全国高校野球選手権に出場し、2年次はチームの4強入りに大きく貢献。高校通算本塁打は当時の日本最多記録となる83本をマーク。1988年に西武にドラフト1位で入団すると97年、ヤクルトに移籍後の2003年にそれぞれ三塁手でベストナインに輝く。プロ19年間で通算189本塁打。右投げ、左打ち。越谷市出身、48歳。
(埼玉新聞)