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浦学、日大山形に惜敗 順延続き感覚にズレ 勇退の森監督に感謝の声

 第103回全国高校野球選手権大会第8日は21日、兵庫県西宮市の甲子園球場で2回戦4試合を行い、3年ぶり14度目出場の浦和学院は今大会初戦に臨み、開幕試合を制した日大山形に3-4で惜敗した。

 浦和学院は一回2死一塁で吉田瑞がフェンス直撃の中越え三塁打を放って先制。続く藤井の中前適時打でこの回に2点先行。だが、その裏の守備で同点に追い付かれると三回には、この回から登板した芳野が、無死二塁から佐藤に適時二塁打を浴びて勝ち越された。2-4の八回に藤井の右犠飛で1点差まで詰め寄って迎えた九回は、2死満塁の一打逆転の好機を築いたが、あと一本が出なかった。

 守っては、計4人の継投で4失点。先発した右腕吉田匠は2回2失点と粘れず、守備から流れをつかむことができなかった。

 監督生活22度目の甲子園出場となった今大会で勇退する森士監督は、「選手たちはやり切ってくれた。甲子園の試合はどれも財産でした」と語った。

<焦点>順延続き感覚にズレ

1回表浦和学院2死一塁、吉田瑞が中越えに先制三塁打を放つ。捕手梅津

 3-4の九回2死満塁、ここまで長打3本で1打点の主将・吉田瑞が遊ゴロに倒れて試合終了。この試合を象徴するように、浦和学院はあと一本が出ず惜敗した。森監督は「1球に対する判断力など、ゲーム感覚から離れたところが出てしまった」と唇をかんだ。

 前線が停滞して雨天が続き、大会は過去最多となる7度の順延を記録。この日迎えた初戦は、当初予定の15日から大幅に遅れた。7月28日の埼玉大会決勝からは、3週間以上も間隔が空いての試合。実戦を想定した打撃練習に力を入れ、スライダーを武器とする日大山形の先発斎藤と現役時代のタイプが似ている森部長が打撃投手を務めるなど、対策を講じたが影響は免れなかった。

 一回、2死一塁から吉田瑞の中越え適時三塁打と藤井のタイムリーで2点を先制。準備が実り、ともに斎藤の変化球を捉えた。だが、二回以降は追加点が遠く、徐々に主導権を失う。ゲーム感覚が鈍ったためか、好機でミスや詰めの甘さが出てしまったからだ。

 2-2の三回1死一、三塁では高松が遊直。一塁走者の藤井が飛び出し、併殺で無得点に終わった。その裏に、2点を勝ち越される。五回には二盗を狙った吉田匠が刺され、九回にも無死一塁から代打松田の送りバントが失敗した。10安打しながら残塁も10。守っては4投手の継投で失点を4に抑えたが、奪った得点は3にとどまった。

 ただ、苦難を乗り越えての甲子園出場は成長の証しだ。2月3日部内で新型コロナウイルスの集団感染が判明。3月下旬に全体練習が再開された時、森監督は「厳しい状況だが、諦めたらそこで終わりだぞ」と選手を鼓舞し、聖地にたどり着いた。2年生の金田は「この悔しさを忘れず、甲子園に帰ってきたい」と再出発を誓った。

主将が躍動 3安打 吉田瑞

 主将の吉田瑞が甲子園で快音を響かせ、三塁打2本を含む3安打の活躍。「甲子園の舞台で臆することなく初球から振っていいと指示があった」と積極的な打撃を披露した。

 一回2死一塁で初球をフェンス直撃の中越え適時三塁打にし、「初回の先制点をチームのテーマとしていたからよかった」と納得の表情。その後の長打2本は、打球処理にもたつく相手守備を見逃さない好走塁も光った。

 九回2死満塁では遊ゴロに倒れて涙に暮れたが、吉田匠から「今まで主将として支えた(吉田)瑞樹で終わったら文句ない」と言葉を掛けられたという。

 勇退する森監督に指導を受けた約2年半について、吉田瑞は「多くの人に支えられていることを教えてもらった」と感謝した。

2回2失点と本来の力出せず 先発の吉田匠

 先発した吉田匠は2回2失点で、本来の投球とはいかず。責任感の強い右腕は、「一回に得点をもらったけれど、自分の力が足りなかった」と人一倍悔しがった。

 埼玉大会は打者65人に投げ、23奪三振の無失点。コーナーを正確に突く制球力を武器にするが、この日は振るわなかった。だが、内野手を兼任する二刀流として投打での活躍がなければ、甲子園出場は果たせなかっただろう。「森監督には『ありがとうございます』と言いたい」と恩師への感謝も忘れなかった。

「人として成長」2安打2打点 5番藤井

一回表浦和学院2死三塁、藤井は適時打を放つ。投手斎藤、捕手梅津

 5番藤井が2安打2打点と奮闘した。だが、勝利に貢献できず、「チャンスを築いたけれど点数が取れず、リズムがつくれなかった」と悔しさをにじませる。

 1-0の一回2死三塁から、「(相手にとっては)ピンチの場面だからスライダーを投げてくる」と予想。日大山形・斎藤が投げた外角低めの球を中前適時打にした。奈良県出身の中堅手は、野球を通じて森監督から多くのことを教わったという。「どんな逆境でも立ち向かう心。人としての心を教わった」と、大舞台で成長した姿を披露した。

勝利伝えたい 浦和学院・金田遊撃手

 「投げては自分の投球ができたが、バッティングではうまくいかず、後続に任せてしまった。監督、コーチに申し訳ない。新チームでは選抜と来年の夏に出場して、森監督に甲子園で勝てるチームになったと伝えたい」

勝てる投手に 浦和学院・宮城投手

 (1回2/3を投げて無失点)「最後の方に投げさせてもらったが、最後まで先輩たちに頼ってばかりだった。投手として大黒柱ではないし、まだまだ未熟だから心身ともに成長して勝てる投手に成長したい」

厳しさと愛情と 勇退の森監督に感謝の声

指示を出す浦和学院・森士監督

 浦和学院と歩んだ30年間の監督生活に幕を下ろした。今大会での勇退を表明している森監督は、「甲子園で1勝する厳しさを改めて知った」と実感を込めた。

 春夏合わせて甲子園に22度出場し、通算28勝を積み上げた。1991年8月、27歳で監督に就任し、初めて指揮を執った秋季県大会で優勝。翌92年春の選抜大会では、チームとしても初出場で4強入り。その後、2013年の選抜大会で初制覇を成し遂げた。

 選手たちは指揮官について、「親のように育ててくれて、厳しさの中に愛情があった」と口をそろえる。森監督は「甲子園に導いてくれた選手には感謝しかない」と語る。試合終了後、ベンチ前で涙を流す選手たちに「負けても堂々と前を向け」と、ウラガクの選手として戦う誇りを説く姿があった。

(埼玉新聞)

浦和学院、あと1本 先取点・10安打…全力で

一回表浦和学院2死一塁、吉田瑞は先制の適時三塁打を放つ。捕手梅津

 浦和学院は21日、2回戦で日大山形(山形)に3-4で敗れた。雨天続きで当初予定から6日遅れの初戦で、埼玉大会決勝からは3週間余り。2死から連打が出た一回に2点を先取し、九回にも一打逆転の好機を作る粘りを見せたが、及ばなかった。30年にわたり率いてきた森士監督は今夏での退任を表明しており、この日が最後の采配となった。

甲子園1勝どうしても 吉田瑞樹主将

 どうしても甲子園で1勝を挙げたかった。全力で挑んだが結果を出せず悔しい。試合から離れていたため、先発・吉田匠は立ち上がりが浮ついた。テーマにしていた「初回から点を取る」ことを甲子園で実現できたのはうれしい。

選手らに感謝しかない 森士監督

 甲子園で1勝する重さ、難しさを改めて感じた試合だった。先制できたのはよかったが、長期間実戦から離れていて守備のリズムがうまく作れなかった。監督生活の最後に夢の舞台に連れて行ってくれた選手らには感謝しかない。

冬にクラスター発生 自粛を乗り越え甲子園へ

試合終了後のあいさつを終え、ベンチ前に戻る浦和学院の選手たち

 コロナ禍で迎えた今夏は、各地で感染や出場辞退が続いた。浦和学院(埼玉)も野球部内でクラスターが発生し、部員らの大半にあたる約40人が感染。「野球どころではない日々」(吉田瑞樹主将)が続いた。日大山形に敗退したが、約6週間の活動自粛を乗り越えた球児たちが甲子園で躍動した。

 1月末、吉田主将は練習中に熱っぽさを感じた。熱を測ると38度を超え、すぐに病院でPCR検査を受け、陽性と分かった。「まさかコロナになるなんて、信じられなかった」

 部員やスタッフらがPCR検査を受けるたび、次々と感染が判明した。症状がなく、「え、オレも?」と驚く部員も。「感染対策は当然していた。通いの生徒も寮に住まわせ、できるだけ外部との接触を断っていたのに」と森士監督(57)は振り返る。

 吉田主将は県内の実家に隔離され、高熱にうなされる毎日を送った。食欲もなく、水分を取ることしかできない。トレーニングなどで85キロまで増やした体重は7キロ減った。

 同じく感染した松嶋晃希選手(3年)は「これまでは練習がきつくて休みたい日もあった。でもいざ休むと、野球ができないことが一番きついんだって分かった」と振り返る。

 陽性者はホテルに滞在したが、陰性の選手たちも濃厚接触者として寮から一歩も出られなかった。主要スタッフで感染しなかったのは、直前まで出張していた森監督だけ。寮にいる部員の世話を森監督も引き受けた。

 「俺がかかったら選手の世話をする人がいなくなる。こりゃ絶対倒れられないって、気合入りましたね」。各部屋への毎食の弁当配布からトイレの消毒まで、「文字どおり下の世話までやった」。日常生活を長く共にしたことで、「今年は選手との距離が例年より近い。選手も『監督も厳しいだけの人間じゃないんだ』と分かってくれたのかも」。思わぬ収穫だった。

 練習は3月上旬に再開できたが、クラスターが起きた野球部に学校や地域の目は厳しく、当初はグラウンドで声を出すのもはばかられた。冬場に失った体力を取り戻すため、春も夏も走り込みを続けた。

 苦しみを経験したチームが一丸となって迎えた甲子園。日大山形に惜敗した直後、涙を流す吉田主将の頭をよぎったのは、クラスターが発生してもなおチームを支えてくれた指導者らのことだった。「自分たちだけではこの舞台に立てなかった」。この経験は、確かにチームの力になった。

甲子園は兄の言う通り 熊本から浦学に進んだ倉岡弘道選手

 浦和学院の内野手倉岡弘道は、熊本県出身。5年前の春、地元が大きな地震に襲われた。夏、阿蘇中央の主将でエースだった兄の真聖(まさきよ)さんが、被災地を代表して第98回大会の開幕試合の始球式に招かれた。

 当時は中学1年生。三塁側の客席から見守った。兄は毎朝毎晩、素振り、ランニングを欠かさなかった。大歓声のなかマウンドに立つ姿が誇らしかった。一方で、「あんなに努力していたのに」と、熊本大会2回戦で敗れた兄の無念を思った。決めた。「今度は自分の番だ」と。

 中学3年の夏、第100回大会のテレビ中継に釘付けになった。浦和学院の選手たちが、攻守交代はもちろん、道具を準備する時でさえ全力で走っていた。中学では1番遊撃手、50メートル走5秒9と足の速さが自慢だった。「自分の力を試すならここだ」。約850キロ離れた埼玉県への進学を決めた。

 入学後、先輩のノックの走者役も大事な勝負の時間だった。一塁なら全力で駆け抜けた。二塁や三塁は遠慮なく滑り込んだ。そんな姿勢が認められ、1年秋には背番号6をもらった。

 2年の春と夏は応援にまわった。激しい競争に行き詰まると、地元で働く兄にLINEで相談した。「できることを全力で」。そう励まされ、苦手な打撃ではなく、バントや守備を磨いた。レギュラーにはなれなかったが、三塁コーチを任された。

 目標の場所に立てた高揚感を、サクサクとした土の上でかみしめた。「この舞台は最高だぞ」。兄から聞いていたとおりだった。

「負けても堂々前を向け」吉田瑞樹主将に森監督

八回表浦和学院無死三塁、藤井の犠飛で走者吉田瑞が生還。次打者高松⑤、捕手梅津

 「まだ終わらせたくない」。1点を追う九回表2死満塁の場面で打席に立ったのは、チームの要・吉田瑞樹主将(3年)だった。球場中が固唾(かたず)をのんで見守る中、4番打者は遊ゴロに倒れた。浦和学院の甲子園は、1試合で終わった。

 止める間もなく涙があふれた。頭の中には様々な思いが駆け巡った。

 今夏で退任する森士監督。支えてくれた、たくさんのコーチ陣や保護者。冬には新型コロナのクラスターも発生した。自分たちだけでは、この舞台に立てなかった。そう痛感しているからこそ、勝利で恩返しがしたかった。「申し訳なさと悔しさでいっぱいです」

 「元々、こんな強い学校に来るつもりじゃなかった」という吉田主将。中学生の時から硬式のクラブチームでプレーする「野球エリート」とは異なり、東松山市立南中学校の部活で軟式野球をしていた。

 だが、声をかけられ初めて浦学の練習を見に行った時、気持ちが変わった。「甲子園、ここなら本当に行けるかも」。初めてそう思った。3年後、本当に甲子園に来た。この日は先制の適時三塁打を含む、3安打1打点と躍動した。

 前主将としてともにチームを支えてきた吉田匠吾選手(3年)は「チームのことを常に考えてくれていた。最後に瑞樹で終わったら、何も文句はない」。試合終了後、腕で顔を覆って泣く主将に、森監督はこう声をかけた。「負けても、堂々と前を向け」

 吉田瑞は「厳しさの中に愛情があった。過ごしてきた日々、全てが思い出です」。

力投する浦和学院の宮城

 浦和学院の背番号1、2年生左腕の宮城誇南(こなん)の出番は七回1死二塁。埼玉大会のときから状態が上がらず、救援での起用になったが、打者5人を完璧に封じた。「ビハインドだったので1点もやれないと、攻撃にリズムを持っていくことを意識して投げた」と宮城。「自分たちの代になった時に絶対帰ってきて先輩たちの分も勝ちたい」と誓った。

父の挫折、息子がリベンジ 二塁打の高松陸選手

 浦和学院の6番打者・高松陸選手(3年)は中学3年生の時、第100回大会に出場した浦学を両親とともに甲子園で応援した。父の義幸さん(47)も浦学の野球部員だったが、厳しい練習の中、けがなどで挫折。1年で部を去っていた。

 でも、野球が好きな気持ちは変わらず、幼い陸選手を連れてよく浦学の試合を見に行った。陸選手が浦学に入ったときも、「自分で決めたこと」と冷静だった。「俺みたいになるな。野球を楽しんで頑張れ」。そう伝え続けていた。

 陸選手は一回に二塁打を放った。外角の直球を打ち返し「抜けてくれと願いながら走った」。義幸さんは「はつらつとしたプレーを見せてくれた。勝ち負けよりそれがうれしい」。陸選手の誕生日は、義幸さんと同じ5月6日。「すごい運命でしょう。生まれ変わって、父の挫折をリベンジしてくれてありがとう」

(朝日新聞埼玉版)

森監督「礼に始まり礼に終わる」あいさつの指導は父原点

9回表、笑顔で選手に指示を出す浦和学院・森監督

 浦和学院(埼玉)を率いた森士監督(57)の夏は、初戦敗退で幕を閉じた。「天国に行ったことはないけど、天国で野球をやっているような気分になる場所」で最後の指揮。開会式の12日後に登場し、1回に2点を先制しながら逆転負け。「甲子園で1勝するという厳しさを思い知らされたような試合でした」と振り返った。

 1時間59分の試合に、30年の集大成を詰め込んだ。9回2死満塁、「第2監督」と信頼を置く吉田瑞が遊ゴロに倒れ、試合終了。泣き崩れる主将に「負けても、堂々と前を向け」と声をかけ、背中をたたいた。

 あと1点が届かなかった。「人生は一生をかけたドラマで、野球というスポーツはそれを2時間に凝縮したドラマだ」。森監督が何度も、教え子に伝えてきた言葉だ。人生が映るからこそ、人間形成に力を注いだ。県大会の試合前には、コーチに就任した89年に64歳で亡くなった父克さんの墓参りを欠かさない。克さんは剣道家だった。「礼に始まり礼に終わる、という魂は俺に宿っている」。徹底したあいさつの指導は父の教えが原点だ。

 27歳の若さでチームを任されてから30回目の夏。「常に120%」「全員野球」の指導方針は一貫する。16年から早大大学院で学び修士を取得。今年から元巨人2軍監督の内田順三氏(73)、元楽天2軍監督の松井優典氏(71)を外部コーチとして招き、時代とともに自身も学んできた。

 今年春の県大会で優勝した直後、1人で学校のグラウンドまでの約10キロを走った。その姿を、選手に見せたかった。試合を終えても、次に向かう1歩が大事。「生きた見本として、見せておかないといけないものがある」。この日は帽子を取り、深々と一礼してグラウンドを去った。

 監督の後任には、長男で部長の大氏(30)が就任する。積み重ねてきた浦学の歴史は、これからもつむがれていく。

森士(もり・おさむ)

 1964年(昭39)6月23日、さいたま市生まれ。上尾、東洋大では投手。87年に浦和学院に赴任。投手コーチを経て、91年8月に27歳で監督就任。甲子園春夏通算22度出場し、計49試合で28勝21敗。13年にセンバツ初優勝。16年から早大大学院に入学し、修士を取得。今年4月から副校長に就任。「NPO法人ファイアーレッズメディカルスポーツクラブ」の理事長も務める。家族は夫人と2男。

DeNA木塚投手コーチ(96年3月卒の浦学OB)

 投手として未熟だった自分に一から教えてくれた最大の恩師だと思っています。言葉には表せないくらい感謝しているとともに、野球人として尊敬しています。1試合でも多くユニホーム姿を見たかったのが本音ですが、まずはゆっくり、お身体を休めていただければと思います。

しんがり登場校敗退

 49代表最後の登場となった浦和学院が初戦敗退(初戦不戦勝の智弁和歌山はまだプレーしていないが記録上は1試合消化済み)。49代表制となった78年以降、組み合わせ抽選時に相手が決まらない「しんがり登場校」はこれで通算11勝31敗1分け。

泣き崩れた主将「悔しい」4番で捕手吉田瑞樹、成長の姿

9回表浦和学院2死満塁、遊ゴロに倒れ涙で整列に向かう吉田瑞樹

 浦和学院(埼玉)の吉田瑞樹主将(3年)は試合後、ベンチ前で泣き崩れた。「(1月の)コロナのクラスターもそうですし、甲子園まで連れてきてもらえた監督さんもそうですし、自分たちだけではここに立てなかったので、なんとしても勝利で恩返ししたいという気持ちだった。達成できなかったことの申し訳なさと、悔しさが入り交じった感じです」。

 1回2死一塁、初球の低めスライダーにうまく合わせ、中堅のフェンス上部に直撃する先制の適時三塁打を放ち、大きくガッツポーズ。「2死から(3番の)松嶋(晃希)がつないでくれて、初回から点を取ることをテーマにしていたので、それが一番よかった」。3、6回にも二塁打を放った。

 第5打席は、1点を追う9回2死満塁で回ってきた。2球目の直球に反応するが、遊ゴロで試合終了。一塁を駆け抜けたところで、うつむいた。「どうしても甲子園の舞台で1勝するのを成し遂げたかった。最後、2死になっても粘り強く自分のところまで回してくれて、どうしても1本出したかったけど、申し訳ない気持ちです」と話した。

 捕手で主将、さらに4番。プレッシャーを背負って戦った。今夏で退任する森士監督(57)からは「第2監督」「現場監督」と呼ばれる。主将として、監督の近くで過ごすことも多かった。厳しい監督だが、練習の意図はしっかり説明してくれた。「厳しい言葉もあるけど、説明してくれる。監督の近くで教えてもらいました」。だからこそ、長い夏を過ごしたかった。「今まで一番お世話になった方なので、甲子園の1戦目を勝利できなくて悔しいです」と話した。

 東松山南中では軟式野球部に所属。高校から硬式となり、入部して最初の練習では二塁まで送球が届かなかった。

 入学当時は、物静かな少年だった。「甲子園に行きたい」「全国制覇をしたい」という目標を掲げて入部してくる選手が多い中で、吉田瑞は「自分を変えたくて来ました」と自己紹介する異色の存在だった。3年を経て、森監督が「立場が人をつくる。堂々としてきた。冷静な分析力もあるし、前に出る強さがある」と全幅の信頼を置くまでに成長した。

 森監督は、チームをけん引してきた主将に向けて「一番責任感が強い選手なので、監督代行というところまで信頼の厚い選手ですから、経験を生かして、次の野球人生につなげていってもらいたい」と言葉を贈った。森監督にとって、最後の主将となった吉田瑞樹。浦和学院で過ごした3年間で、確実にたくましくなった。

(日刊スポーツ)

浦学、日大山形に3-4で惜敗 宮城「どんなときも厳しく優しく親身」監督に感謝

試合結果

全国選手権大会・2回戦(8/21・甲子園)

TEAM123456789HE
浦和学院2000000103101
日大山形20200000x480
【浦】吉田匠、芳野、金田、宮城-吉田瑞
【日】斎藤、滝口-梅津
吉田瑞2(浦)
高松、吉田瑞(浦)佐藤2、大場(日)

打撃成績

 浦和学院
位置選手名打数安打打点
①464吉田匠410
⑥16金田410
松嶋410
吉田瑞531
⑧98藤井322
⑤353高松310
③939三奈木300
安達100
1芳野000
8高山200
1宮城110
④545八谷300
H松田100
34103
 日大山形
位置選手名打数安打打点
秋葉200
新田300
佐藤422
伊藤200
塩野411
梅津411
榎本310
斎藤200
1滝口100
大場330
2884

投手成績

 浦和学院
選手名安打三振四球死球失点自責
吉田匠2422022
芳野0/3111021
金田4 1/3340000
宮城1 2/3010000
8883043
 日大山形
選手名安打三振四球死球失点自責
斎藤5711022
滝口4323111
91034133

チーム成績

TEAM攻撃守備
三振四死球犠打盗塁残塁失策併殺
浦和学院35111012
日大山形8320501

日大山形が逃げ切った。一回に2点を先制された直後に、塩野の適時打などで追い付いた。三回に佐藤の適時二塁打と梅津の適時打で2点を勝ち越した。先発の斎藤は丁寧な投球で5回を2失点にまとめた。2番手の滝口が4回を1失点でしのいだ。浦和学院は二回以降、打線につながりを欠いた。九回2死満塁も得点できなかった。

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