【写真】三浦貴さんとの思い出を語る浦和学院・森士前監督
浦和学院・森士前監督、三浦貴さん偲ぶ「おまえがいてくれたから幸せだった」23日が最期の対面
24日にがんのため死去した元巨人、西武で浦和学院(埼玉)野手担当コーチだった三浦貴氏(45)さんの浦和学院時代の恩師・森士前監督(59)が25日、取材に応じた。大宮公園野球場での埼玉大会準々決勝・浦和学院-埼玉栄戦前に対応した。
22日に三浦さんと高校時代にバッテリーを組んでいた元中日で東都2部立正大コーチの小川将俊氏(44)から「今日会ってきたが調子が厳しい。監督に会いたいんだと思います」と電話で伝えられた。それまでも森氏は容体が急変していたことは知らされていたが、苦しんでいるところに会いにいくことは申し訳ないとの配慮から、面会は自粛していた。だが小川氏から状態を聞き、翌23日にさいたま市内の自宅に向かった。痛みを抑える治療形態に変わり、相当苦しんでいる様子だったが「もうろうとしていたが、ちゃんと目を開いて、会話もしっかりしてくれました」と神妙な面持ちで振り返った。
23日に行われた5回戦の立教新座戦を、横になった三浦さんと小川氏を含む教え子3人とテレビ観戦した。「決勝までへたるなよ」と声をかけ、ずっと手を握りながら選手たちがプレーする姿を見守っていた。帰り際、森氏は「僕の監督生活も、おまえがいてくれたから幸せだった。ありがとな」と手を握りながら三浦さんに直接伝えた。「また来るぞ」が、最期の言葉となった。
三浦さんのお通夜、告別式は家族葬で行われる予定。
(日刊スポーツ)
元巨人・三浦貴さん死去 浦和学院の恩師・森士氏「これから嘱望されていた人材。無念」
24日に亡くなった、巨人、西武などで活躍した三浦貴(みうら・たか)さんの浦和学院時代の恩師・森士(おさむ)氏(59)=NPO法人「ファイアーレッズメディカルスポーツクラブ」理事長=が25日、県営大宮公園で報道陣の取材に応じた。
亡くなる前日に三浦さんのもとを訪問したといい、「すごい気丈だった。この前うち(浦和学院)の立教新座戦(23日・5回戦)を一緒に教え子たちと4人で見てた。だから最後まで『今大会、おまえそれまではへたるなよ』って言ったんだけど」と振り返った。三浦さんの現役引退後は監督、コーチの間柄としても時間を過ごしており、「若くてこれから嘱望されてた人材だからね。とにかく無念でしかない。ただご冥福を祈るばかり」と声をつまらせながら話した。
同氏によると、三浦さんは現役引退後の12年4月から母校の教員として勤務し、13年7月末から野球部のコーチとして指導に当たっていた。だが、22年3月に大腸がんが見つかり、同校を休職。放射線治療と手術によって一時は全てのがん細胞の除去に成功し、今年3月に復職したが、6月末から再び体調を崩していたという。
(スポーツ報知)
元巨人、西武の三浦貴さん死去 浦和学院時代の恩師・森士氏が思い語る「熱い指導者でした」
巨人、西武でプレーし、引退後は浦和学院(埼玉)で指導者を務めていた三浦貴(みうら・たか)さんが24日に亡くなったことを受け、高校時代の恩師である森士(おさむ)氏が「まだまだこれからという年齢ですからね。彼自身が無念でしかなかったと思う」と思いを語った。
亡くなる前日23日に会った際には「帰る時も三浦の手を握って、僕の監督生活もおまえがいてくれたから幸せな監督生活だった」と声をかけていた。
森氏が浦和学院の監督時代に甲子園出場した第100回記念大会では、大会期間中の練習で打撃投手を務めていた三浦さんに打球が直撃し、緊急入院したことも。しかし、その後の試合では病院からノッカーとして駆けつけたというエピソードも明かし、「大阪桐蔭の試合の時は病院から駆けつけてノックしてましたよ。帰って来てから手術したという。本当に強じん的な。野球人としては熱い指導者でしたよね」と、懐かしそうに当時を思い出していた。
浦和学院はこの日、埼玉大会準々決勝を埼玉栄と戦っており、森氏は試合前に球場に姿を現し、取材に応じた。三浦さんの思いも背負い、夏は21年以来、2年ぶりの甲子園出場を果たすため、森氏は「選手たちは変に意識しないで持っている力を発揮してくれればなと」と願った。
(スポニチ)
元巨人、西武の三浦貴さんが死去 45歳 浦和学院時代の恩師・森士前監督「最期まで野球人だった」 亡くなる直前に面会
巨人、西武でプレーし、引退後は母校の浦和学院で指導者を務めていた三浦貴(みうら・たか)さんが24日に亡くなったことが25日、分かった。埼玉県出身。45歳だった。
三浦さんを浦和学院時代に指導した、前監督の森士氏が取材に応じた。亡くなる前日の23日に三浦さんの容態が悪いという情報を聞き、療養中の自宅で会っていたことを明かし、「薬の副作用でもうろうとはしていたが会話はできた。『お前がいてくれたから幸せな監督人生だった』と伝えられて良かった」と故人を偲んだ。
三浦さんは浦和学院3年時に春夏連続で甲子園に出場し、指導者としても母校に関わっていた。
三浦さんは7月初旬まで高校野球埼玉大会の大会役員として顔を出し、4月には生徒たちに特守を行う動画を撮影するなど、容態が悪くなる直前まで野球に関わり続けていた。森氏も「生徒たちにとっても生きた見本だったと思う。最期まで野球人だったね」と労った。
三浦さんは東洋大から2000年のドラフト3位で投手として入団。ルーキーイヤーは49試合に登板し、3勝2敗、防御率3・41を記録。03年から原辰徳監督の勧めで野手に転向し、同年9月には中日戦で初打席初本塁を放った。07年限りで巨人を退団し、08年に西武に入団、翌年限りで現役引退した。引退後は母校の教員として勤務し、その後、野球部のコーチとして指導に当たっていた。
(デイリースポーツ)
元巨人・三浦貴さん死去前日に面会の浦和学院・森士前監督「おまえがいてくれたから幸せな監督人生だった」
巨人、西武で投手、野手として活躍し、引退後は母校の浦和学院高(埼玉)でコーチを務めていた三浦貴(みうら・たか)さんが、24日に大腸がんのため亡くなった。45歳だった。
三浦さんは昨年3月に大腸がんが見つかった。ステージ4だったという。手術、闘病を経て、今年3月に野球部のコーチや学校の教員として復帰したが、容体が悪化し、帰らぬ人となった。
三浦さんを高校時代に指導した浦和学院前監督の森士(おさむ)さんが25日、取材に応じた。森さんは、三浦さんが亡くなる前日の23日に、さいたま市内の三浦さんの自宅に会いにいったという。それまでは、苦しんでいるところに面会に行くのは三浦さんの体調を配慮して自粛していたが、22日に三浦さんと高校時代にバッテリーを組んでいた元中日の小川将俊さんから容体悪化の連絡を受け、駆けつけた。
「もうろうとしてましたが、意識はしっかりしていて、会話はできました。前の日から、私が行くことを小川から聞いて知っていて、『ざわつく』と言っていたようで。私が行くと起き上がってきてね。『寝とけよ』と言って、話をしましたね」。その日の浦和学院の5回戦・立教新座戦を一緒にテレビ観戦もした。
そして森さんは、その面会の時に、「伝えたかった」という思いを三浦さんに語りかけた。それは感謝の気持ちだ。「手を握りながらね、『選手としてもコーチとしても、監督人生を支えてくれて、ありがとうな。おまえがいてくれたから、幸せな監督人生だった』と」。それを聞いた三浦さんは「いや、いや」と、少し照れたような表情を見せたそうだ。きっと、最高にうれしかったはずだ。
三浦さんは7月上旬までグラウンドに立っていたといい、埼玉県高野連の役員として、埼玉大会の前半は球場にも行っていたという。森さんは「精神力で持っていたのでしょうね。最後まで頑張り屋さんだった」と、三浦さんを思いながら言葉を絞り出した。
三浦さんは高校3年だった1996年の春夏に甲子園に出場。東洋大を経て、2000年のドラフト会議で巨人に3位指名されて投手としてプロ入り。1年目の01年は中継ぎとして49試合に登板し、3勝2敗。03年から野手に転向、07年限りで巨人を退団。08年から西武でプレーし、09年限りで現役引退した。引退後に教員免許を取得し、浦和学院高の教員として勤務し、野球部のコーチも務めていた。
(中日スポーツ)