勝利した浦和学院の阿部鳳稀(ふうき)内野手(3年)は晴れやかな表情で、あこがれの校歌を歌った。「幸せだな、と思いました」と感慨深げだった。
特別な思いがあった。宮城・石巻市出身。2011年3月11日、鹿妻(かづま)小4年の冬に、東日本大震災があった。当時、自宅から2キロ先の長浜海岸まで毎日走って鍛えていた。3月10日も走った。「いつもと波や海が違う」と感じた鳳稀少年は、帰宅後に両親に「津波が来るよ」と泣いて訴えた。翌日、悲劇は本当に起きた。
家族は無事だったが、自宅は床下浸水。近所の道路には遺体もあったという。電気も食料も満足に手に入らない日々でも、下を向かず、家族の手伝いをしながら道路でバットを振っていた。日常は少しずつ戻るものの、まだ復興途上。そんな折、所属する野球チーム「鹿妻・子鹿スポ少野球クラブ」にスパイクが届いた。「あれは、本当にうれしかったです」。送り主は、浦和学院だった。
同校は学校全体で石巻・東松島地区の復興活動を推進していた。野球部員が石巻を訪れ、交流を続けてきた。13年4月、6年生になった鳳稀少年はセンバツ甲子園決勝のアルプスにいた。チーム全員で甲子園へ浦和学院の応援に日帰りで訪れた。野球部員たちと一緒に応援。日本一の瞬間を共有した。「なんてかっこいいんだろう」。
この時点で「浦和学院に絶対に行く」と心に決めた。中3での入試直後には、熱い思いを連日、原稿用紙に書き続けた。膨大な作文は、高校野球での心の支えにもなった。「つらい時、調子が悪い時、原点に返ろうと作文を読み返していました」。最後の夏、背番号16。部員数96人の強豪校で、一塁コーチを任されるまでに成長した。
それでも「ここに立てていることを当たり前と思っちゃいけない」と阿部は言う。石巻では同世代の子どもたちも大勢、亡くなった。「生きたくても生きられなかった人がたくさんいます。街は戻ってきていても、震災のことで苦しんでいる人はまだまだいます。自分が甲子園で活躍して、少しでも地元に勇気や感動を届けられたら」。
震災から7年5カ月。阿部はあの3月10日と同じように、両親に「初戦、仙台育英と当たると思う」と予言し、的中させた。そして「甲子園、優勝すると思う」とも予言している。少年時代のヒーローに、今度は自分が。石巻の子どもたちに優勝メダルを見せる日を、夢見ている。
(日刊スポーツ)