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浦和学院・森士物語(2)27歳で監督に就任 選抜初挑戦はベスト4

 1987年4月、22歳で浦和学院のコーチに就任した森は「自分は選手としては失敗作。だから、同じ思いをさせたくない」と選手の兄貴分として指導を始めた。

 「兄弟のようで指導の原点だった」と振り返るエピソードがある。当時、エースの谷口英規(現上武大監督)が左肩を故障。コーチになりたての森は、再起させるため、半年にわたって谷口を森の実家に住まわせ、”合宿”を実施した。

 寝食を共にし、練習後は2人で浦和競馬場のダートコースを競走馬のように走ったという。そのかいがあって、谷口は故障から復帰。この夏、2年連続の甲子園出場に貢献した。選手と近い距離で関わり、5年にわたってコーチの責務を果たした。

27歳で監督に就任し、初出場の選抜大会に向けて練習を見守る森士=1992年3月

突然の昇格

 監督人生のスタートは27歳の時、突然訪れた。91年7月末、当時の理事長が指導陣を一新する方針を打ち出す。恩師でもある前監督の野本は、森が浦和学院のコーチとなる前の86年夏、大学4年生の時に死去。初出場した全国高校野球選手権大会は後任監督に和田昭二を据えて4強入りし、翌年夏も全国切符を手にしたが、その後は甲子園から遠ざかっていた。

 「ほかの指導者はみんな年上。自分はないと思っていたから驚きだった」と森。まだ27歳の若さ。「勝負の怖さを感じ始めた頃で、監督の責任を背負うのは早い」と不安しかなかった。

 ところが、結果は吉と出る。就任から約1カ月後に開幕した初采配の秋季県大会で初優勝を飾る。決勝では、県内の公式戦27連勝中の春日部共栄に3-1で勝利。「優勝するとは思わなかった。選手たちには勢いがあって、プレッシャーがなかった」と振り返る。

初陣で快進撃

 森自身も、青年監督らしく思い切りよく指揮を執れたのが大きい。要因の一つは、母校・東洋大監督(当時)の高橋昭雄に就任あいさつした時、叱咤(しった)激励され、吹っ切れたからだ。

 森が「今は春日部共栄が時代を築き上げています」と言うと、高橋は「そんな弱腰なら、監督なんか引き受けるな」とぴしゃり。森は「あの言葉で迷いや怖さがなくなり、突っ走れた」と感謝する。快進撃は関東大会でも続く。ベスト4に進み、翌92年春の選抜大会に初出場。甲子園でも4強入りを果たした。

進退の危機

 だが、壁にぶち当たる。その後は春も夏も県大会8強止まり。2シーズン目の秋季大会は、地区大会で姿を消した。地区で敗れたのは、これが最初で最後の屈辱。学校経営陣からは、「森はクビ」との声が上がる。勝てない怖さを知った。

 森はここで開き直る。「いつ辞めても後悔しないようにやり切ろう」。冬場の練習は、時間と質を高めた。すると、93年春は県4強。準決勝で選抜大会準優勝の大宮東に3-9で敗れたものの、中盤までは互角だった。

 夏の埼玉大会決勝は2-5で涙をのんだが、対戦した春日部共栄が甲子園で準優勝。「あそこまでやれば戦えることを知った」と、森は自信をつかんだ。

 監督就任から2018年夏までの27シーズンで、春夏秋の県大会のうち毎年1大会以上で優勝。県の頂点に立てなかった2シーズンも、夏の埼玉大会決勝には勝ち進んでいる。=敬称略

(埼玉新聞)

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