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浦和学院・森士物語(3)大逆転勝ち転機に 二つの病苦越え黄金期

 森には「忘れられない試合」がある。監督3年目の秋、1993年秋の地区大会1回戦の大宮北戦だ。延長十一回の末、13-12でサヨナラ勝ちしたが、六回途中までは1-12と大量リードを許していた。スタンドの学校関係者は大敗を予想し、途中で球場を後にする。森は悔しがり、「必死になった」。火が付いた闘志は選手にも伝染。猛反撃を開始して九回に追い付くと、十一回に決着をつけた。どれほど劣勢でも、諦めない大切さを痛感。勝ちにこだわる姿勢を貫く原点となった。

 勝負強さはさらに増す。5年目の96年には、現在浦和学院でコーチを務めるエース三浦貴や石井義人(元埼玉西武)、小川将俊(元中日)らを擁し、初めて春夏連続で甲子園出場。常勝軍団として歩みだした。

監督人生の分岐点となった2000年夏、春日部共栄との埼玉大会決勝=2000年7月30日、県営大宮

野球か家庭か

 だが、新たな苦しみが立ちはだかる。90年代の埼玉高校野球界は、全盛だった公立勢に代わり、浦和学院や春日部共栄など台頭する私立勢が勢力図を塗り替えていった転換期だった。新興私学に対する風当たりは強く、嫌がらせ電話やいたずらも受けたという。

 家庭にも問題が生じる。2人の息子を育てながら監督業に奔走する夫を支える重圧から、妻志奈子がパニック障害を発症。森は「家庭を顧みず、犠牲にしていた」と言う。野球を取るのか、家庭を選ぶのか。人知れず悩む日々を送っていた。

重圧から解放

 98年には、森自身がストレスから胃潰瘍を患ってしまう。入院せず薬で治療したが、胃酸が込み上げてくる状態。「もう限界だ。辞表を書こう」と考えるようになった。

 そんな8年目の99年春、学校経営陣が一新された。少しでも成績が思わしくなければ、即解任を覚悟しなければならない立場に置かれていたという。だが、新理事長に胸の内を明かすと「まずは体を治してください。そして野球部は全てあなたに任せます」と言われた。「気持ちが楽になった」と森。勝利を追求する姿勢は変わらないが、過度な重圧から解放されたのは救いとなった。

好敵手で師弟

 本多利治率いる春日部共栄とは、深い縁がある。9年目の2000年夏、埼玉大会決勝では、延長十回の激闘に2-1でサヨナラ勝ち。両者の顔合わせは91年秋の県大会決勝を皮切りに、93年夏からは4季連続で県の頂点を決勝で争った。森は「春日部共栄を倒さないと甲子園に行けない」と言い、本多も「勝利への執念が強く、お互いに目標とする関係」と認める。

 プライベートでは親交を育んできた。食事会を開き、野球談議に花を咲かせる。「ユニークな人だが、野球になると人が変わる」と本多。森は「おとこ気があって尊敬できる。野球についていろいろ聞いた」と、7歳上の先輩監督を師のように慕う。

 20世紀最後の夏にライバルを倒した勝利に、森は「監督人生の分岐点」と捉える。浦和学院は黄金期を迎えた。02年春の選抜大会から08年夏の全国高校選手権大会までの7年間、春夏いずれかで甲子園に出場。06年から08年にかけては、1県1代表制後、当時史上初の埼玉大会3連覇を果たすなど敵なしだった。=敬称略

(埼玉新聞)

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