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<3>「自主性重視の闘将 プロから転身、名門に」

よみがえれ上尾、熊商野球<3>自主性重視の闘将 プロから転身、名門に

 腕を組んで、どっかとベンチに腰を下ろして微動だにしない。それが上尾を夏4度の甲子園、1975(昭和50)年には全国4強まで押し上げた故・野本喜一郎のお決まりのスタイルだ。口数も少なかったというのが、卒業生たちの一致した評。一週間、「ご苦労さん」の一言だけのときもあったという。

 「あいつは練習やってねえから失敗するんだ」「こう打たないと」。試合中になるとぼそりとつぶやく。本人には直接言わない。監督の言葉はチームメートを通して本人の耳に入ってくる。「見ていないようで、ちゃんと見ていてくれた。監督の言葉がすごく効いた」とOBで北本監督の斎藤秀夫。

 練習は約3時間。強豪校では決して長くない。「3時半から始まって、7時前には終了。7時半には帰りの電車に乗っていた」と斎藤。選手は練習で物足りなさを感じていた。「みんな絶対言わなかったが、帰宅してから課題の克服などに取り組んでいた」。斎藤も素振りなどを欠かさなかった。

 野本は社会人野球、プロ野球の西鉄ライオンズ(当時)などで投手として活躍した。58年に上尾の監督に就任。それまでの経験を通して、「野本さんは、高校野球は人が育つ原点と言っていた」と、卒業生の浦和学院監督の森士は話す。森も「三つ子の魂百までではないが、高校3年間は社会に出るための原点」と恩師の影響を口にする。森にとって、野本の座右の銘「大胆細心」は、野球人の指針であり、現在の指導法に生きているという。

 現役時代に投手だった森は思うような投球ができず、悩んでいた時期があった。そこで「監督からあまりにも何も言われないので、『教えてください』とお願いに行ったら、『いい球が行くようになれば、それがいいフォーム』と言われた。投げて投げて投げまくるしかないと吹っ切れた」。

 斎藤も「必要以上に教えなかった。“根性野球”隆盛の中で異色だったと思う。若いうちはできなかったが、私自身もそういう指導法に転換していった」。自分で考える力を養う。原点だからこそ形に捉われず、人間的な成長にもこだわった。

 森が1年生の時、外野練習に回された。どうしても投手練習に参加したかったので、勝手に投手陣に混じってしまった。だが、野本は黙認した。後に、「人づてに聞いたが、野本監督は『野球は頑固者じゃないと大成しない』と話していた。芽をつぶさないようにしてくれていた」と、包容力の大きさに胸を打たれたという。

 「監督は我慢だよ」。斎藤が鷲宮で初めて指導者となることが決まった時、野本から贈られたアドバイスだ。「がんがんやるのは監督の自己満足。余力を残して、いかに自分で練習をするように仕向けていくか。明日も楽しみだなと思わせられるか」

 戦時中に従軍したという野本。自由に野球ができる喜び、野球少年の純粋な欲求を満たしてあげることが、名門への道を開いたのかもしれない。(敬称略)

(埼玉新聞)

◇野本喜一郎(のもと きいちろう)

 1922年5月8日生まれ。加須市出身。旧制不動岡中学校(現在の不動岡高)から社会人野球のコロムビアを経て1950年、西日本パイレーツ入団。その後、西鉄クリッパーズと合併し西鉄ライオンズに。1953年、近鉄パールスへ移籍。同年、現役引退。
 上尾高野球部監督などを経て1984年、浦和学院高野球部監督に就任。1986年、病気療養のため夏の大会は和田先生が監督代行。浦和学院が念願の甲子園初出場を決めるが、同年8月8日、甲子園の開会式当日に死去。(64歳没)浦和学院は甲子園でベスト4に進出した。

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