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甲子園ベストゲーム、選手たちはいま「頂点極め心に糧」

100th 甲子園ベストゲーム 選手たちはいま

 1986年の第68回大会で、初出場の浦和学院はベスト4に勝ち進んだ。当時の主将、4番打者、エースはその後、野球でそれぞれの「日本一」に輝いている。歩みをたどり「いま」を訪ねた。

1986年・第68回準々決勝

浦和学院 3 0 1 0 0 0 0 0 0 4
高知商 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0

主将・黒須隆さん、「野球人」自負今も

 主将で捕手だった黒須隆さん(49)は神奈川県厚木市にある日産自動車のテクニカルセンターに勤務する。約1万5千人が働き、商品や技術開発などを担う同社最大の拠点。黒須さんは「企業人」としても、リーダーシップを発揮する立場にいる。

 地域貢献なども守備範囲にする総務系の課長で、センター全体の防災組織の事務局長でもある。「リーダーは目配りと気配り、責任と判断力です」。瞬時に的確な判断を下す捕手としての経験を仕事に重ねたとき、「野球人」だった黒須さんの自負がみえた。

 浦和学院から東都大学リーグの東洋大へ進み、日産に入社。1996年アトランタ五輪代表となり銀メダルを獲得した。社名を背負って戦った都市対抗野球で「日本一」になったのは98年。決勝の川鉄千葉戦は15-3の大勝。先発捕手として5打数2安打の活躍だった。

 「野球では負けて泣いてきた。いつかは勝って泣きたい。その願いが訪れたのが、この時です」

 ユニホームを脱いだあとは社業へ。国内各地にある車のテストコースの防災なども担当する。寒冷地試験場がある北海道の陸別町を訪れる時は、子どもたちを集めて野球教室を開く。日産の社会貢献事業の一つで、黒須さんだからできる仕事だ。

 「野球はいろんな人との『出会い』をくれる。今は感謝しかありません」

4番打者・鈴木健さん、かなえた夢教える

 4番打者だった鈴木健さん(48)は、障害児らの「先生」。さいたま市主催の障害者スポーツ・レクリエーション教室で毎年、野球を教えている。「教える側が感動する。だって、教室が始まる2時間前から待っている子がいるんだ」

 1987年のプロ野球ドラフト会議で西武が1位指名。越谷市で過ごした少年時代に抱いた「プロになる夢」を実現した。「子どもたちには、何でもやりたいことを見つけてほしい。途中であきらめるな。夢はきっとかなうから」

 高校時代に放った本塁打は通算83本。そんな実績もプロではすぐに通用しない。入団当時の西武には清原和博、石毛宏典、辻発彦ら強力なレギュラーがいた。2軍で成績を残し1軍に上がっても、出番がないまま逆戻りの悔しい経験をしている。

 浦和学院では、故野本喜一郎監督に自分で考えることを教えられた。投手の配球を研究し準備する。数少ない1軍での打席で結果を出してはい上がり、92年の日本シリーズ3連覇などにも貢献した。障害者とのつながりは、西武からヤクルトに移籍し、球場に招待するようになってからだ。

 テレビでの野球解説のほか、全国各地の少年野球教室にも駆け回る。「現役時代の経験を伝えたい。自分にしか教えられないことがあると思う」。野球は楽しいと知ってもらうため、指導の工夫も欠かさない。日本球界のすそ野を広げている。

エース・谷口英規さん、高みへの挑戦続く

 完封勝利を挙げた投手の谷口英規さん(48)はいま、群馬県伊勢崎市にある上武大学の硬式野球部監督。スポーツマネジメントを教える教授でもある。「人を育てるのは、自分の人生のミッション(使命)と思うようになった」。大学の野球場で静かに話す。

 全日本大学野球選手権を上武大が初制覇したのは2013年。群馬県のスポーツ賞顕彰で「優秀選手賞」を団体として初受賞している。しかし、そこまで自身の歩みが順調だったわけではない。

 東洋大学時代は投手としての限界を感じ、打者に転向。社会人の東芝に進んで活躍しているが、30歳そこそこで現役を引退。「野球しか知らない自分の小ささを思い知らされた」。東芝の社業で半導体を売る仕事もしている。

 大学時代の縁で上武大で教え始めたのが2000年。サラリーマンとして苦労した経験が生きてくる。「うまくいかずに苦しんでいる学生の気持ちが分かるようになっていた」。上武大の野球部は部員が200人を軽く超える屈指の大所帯。マネジャーの一人は「一人ひとりのことをよく見てもらえている」と監督に寄せる信頼を語る。

 高校時代を振り返り、谷口さんは「人生で甲子園は一瞬。しかし、野球がなければ今の自分はない。人生を変えるきっかけになったのは確かだ」。

 野球の高みを目指す挑戦はなお続いている。

監督・和田昭二さん、つながり消えない

 監督だった和田昭二さん(59)はいま、体育の教師で浦和学院ゴルフ部の顧問。野球部の森士(おさむ)現監督(53)に後を託してから27年近くになる。そんな和田さんのところに、甲子園出場投手だった谷口英規さんから電話があったのは2013年6月のことだ。

 あいにく、電話にはすぐ出られなかったが、上武大硬式野球部監督になっていた谷口さんからの着信と分かって用件を察した。決勝に進んでいた全日本大学選手権での優勝を伝えてきたのだ。折り返し電話し、日本一に声がはずむ谷口さんの労をねぎらったのを和田さんは覚えている。

 甲子園で戦った監督と選手には、何年経っても切れないつながりがある。「当時の選手たちがその後どうしているか、活躍の様子を知ることほど教師としてうれしいことはない。動向はほとんど把握している」と和田さん。

 うれしい便りだけではない。甲子園で先発した9人のうち2人が既に他界しているという現実もある。教え子の死を知ることほどつらいものはない。葬儀に参列した和田さんは冥福をただ祈るばかりだったという。

(朝日新聞埼玉版)

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