9月17日(金)、今夏限りで勇退した浦和学院野球部の森士前監督がテレビ埼玉「ニュース930 plus」の特集コーナーに生出演し、監督生活30年の思いを語りました。
夏の大会を最後に浦和学院野球部の監督を勇退した森士前監督(57)。甲子園での戦いを終え、チームが埼玉に戻った1週間後の先月29日、グラウンドで退任・就任セレモニーが行われました。
「浦和学院ここにあり」という証しを見せつけられるのはこれからだと思う。監督としては退任するが、チームに携わってまた協力していきたいと思う。
27歳の若さで監督就任
小学校2年生から野球を始めた森さんは中学時代にエースとして頭角を現すと、名将・野本喜一郎監督率いる上尾高校に進学。その後、東洋大学へ進みました。
大学卒業後、浦和学院でピッチングコーチとして指導者生活をスタートさせた森さんが監督に就任したのは1991年。27歳という若さでした。
翌92年には春のセンバツに初出場し、ベスト4進出。94年には、エース木塚敦志を擁し、就任後初めてとなる夏の埼玉大会優勝と夏の甲子園出場を果たしました。
春夏合わせて22回チームを甲子園へ導き、2013年にはエース小島和哉を中心に春のセンバツで初の全国制覇を成し遂げました。甲子園での通算成績は28勝21敗でした。
就任間もない頃はどういう気持ちでしたか?
精一杯で目の前のことしか考えられないという状況でした。
浦和学院で指導者をスタートさせたきっかけは?
先代の野本喜一郎監督から指導者として手伝わないかという話をうけました。私自身は高校、大学と現役生活では怪我続きで、背番号をつけてベンチに入ることは一度もありませんでした。いわゆる失敗作でしたが、そんな反面教師的な経験を生かして選手たちに何か伝えることができればと思い、指導者の道に足を踏み入れました。
きっかけとなった野本喜一郎監督はどんな存在でしたか?
絶対的な恩師。洞察力、包容力に優れ、野本監督なくして今の私の監督生活はないといっても過言ではありません。
退任はいつ頃から考えていましたか?
ちょうど2年ほど前からです。学校関係者と相談し、タイムリミットを決めようかという形で話したのがきっかけです。
正直、辞めることを選手たちにいつ話そうかとずっと迷っていました。大会に向けて選手たちを戸惑わせてはいけないと思いながらも、ファンの方々にどこかのタイミングで挨拶することができないかと考えていました。
準決勝後のインタビューを受けた際に、もし(決勝で)勝てたら、そのタイミングでお話をさせていただければと思い、少しお時間をいただきました。
甲子園での戦いを終えて今のお気持ちは?
最後の甲子園で勝てなかったことは悔しいです。長雨続きとコロナの関係もあり、コンディショニング的には非常に厳しい状況にあったので、選手たちには思いっ切り戦わせてあげたかったなという思いはあります。
ただ、30年間やり遂げたことに対してはとにかく感謝の気持ちでいっぱいです。そして、個人としてはプレッシャーから解き放たれた安堵の気持ちと、これからの不安と希望で思いが交錯しているという感じです。
春夏合わせて22回出場した甲子園とはどんな場所ですか?
就任当初は夢、憧れの場所でしたが、最近では全国制覇を懸けて戦う大舞台という感じでした。
30年の監督生活の中で忘れられない試合は?
振り返るとすべてのゲームに思い出がありますが、しいて1つ挙げるならば、2000年夏の埼玉大会決勝の春日部共栄戦です。わが校は前年まで2年連続決勝で敗れ、悔しい思いをしていて、3年連続の決勝戦でした。
この試合は、延長10回サヨナラでなんとか勝つことができましたが、終盤にふと「これで負けたらどうしよう」という気持ちがよぎっていました。そんな中でもベンチで身を乗り出して大声で叫んでいる選手たちを見て、逆に私自身が「こんな弱気だったらいけない」と奮い立たせるエネルギーをもらったことを鮮明に覚えています。
10回表、2死二塁で相手の4番打者のセンター前に抜けそうな当たりを坂元弥太郎が好守でさばき、ベンチに戻ってくるときに春日部共栄の中里投手が相手ベンチ前で肩を落としているのを見逃しませんでした。
そして、円陣の中で選手たちに「この回がラストチャンスだぞ。この回を逃したら甲子園に行けないぞ。とにかく当たっている3番の丸山に回せ」と言ったことを覚えています。
財産のノート
森さんには試合後に必ず行う習慣がありました。森さんが財産と話すノート。数百に及ぶ試合のスコアや選手の成績が細かく書かれています。
監督として指揮を執った30年間で公式戦653試合551勝99敗3分。森さんの浦和学院野球部監督としての生涯成績です。
「記憶は薄れていくので集大成として残しておきたい。補助記憶装置ですかね。今日初めて読み返してみたんですが、あらためて見てみるとやってきたことがなんとなく思い浮かぶというか、老後の楽しみですかね(笑)」
そんな貴重なノートを今日は3冊ともお持ちいただきました。こちらは一番古い初代のものなんですが、びっちりと情報が書かれています。
これはどういうきっかけで書き始めたんですか?
ちょうど監督5年目にセンバツに出場させていただいた際に、埼玉新聞の方から「あと4試合で100試合に到達しますよ」という言葉をいただいて、それから明確に意識したのを覚えています。ノートは7年目のときから書き始めました。
このノートの存在はOBの選手は知っているんですか?
何かつけているなということは知っていると思うんですが、中身までは多分知らないと思います。
OBからのメッセージ
30年間の監督生活の中で多くのプロ野球選手を含むちょうど1000人の部員を卒業生として送り出されてきた森さん。現役プロ野球選手として活躍するOBの2人からメッセージが届いています。
千葉ロッテ・小島和哉投手
現役中は気付けなかったことでも大学、プロに来てから言っていた意味を理解したこともあったりして、その先で生かされるようなこともたくさん教えていただいたので、すごく感謝しています。30年監督として引っ張って下さってお疲れ様でしたと伝えたいです。
埼玉西武・渡邉勇太朗投手
高校野球を一度辞めそうになった時に必死に止めていただき、野球部を辞めずに済んで今の自分があると思うので、本当にありがたいです。30年間浦学を強豪にした森監督にはお疲れ様でしたと言いたいです。
教え子のメッセージいかがですか?
とても成長していて頼もしいですね。
指導する上で大切にしてきた信念はありますか?
偉そうなことを言わせていただけるのであれば、指導の原点は子育てであり、しつけなのかと思います。選手と1分1秒一緒にいてあげることが大事なことだと思っています。人間関係に上も下もない。選手と指導者、そして親子の存在があっても決して先駆者は偉いというわけではない。先駆者は正しい時代の橋渡しの役割があると思います。そういう役割を果たすためには、ときにはうるさく、そして厳しくすることも必要ではないかと考えています。
後任の監督で森さんの長男でもある森大新監督と、吉田瑞樹前主将にもお話をうかがっています。
浦和学院野球部・森大新監督
私が生まれてきたときから監督をやっていたので、監督であり、父親でもある。高校生のときは現役で父と子として甲子園に出場させていただいて、私の中では永遠の師である。一時代を築き上げた方だと思っているので、本当に尊敬しています。何より家族として父親、母親にはお疲れ様でしたと伝えたいと思います。
浦和学院野球部・吉田瑞樹前主将
自分たちが生まれる前から監督をされていて、人生の先輩であり、一番近い恩師として尊敬しています。30年間という長い月日の中で、これだけ多く勝ってきた監督は森先生以外にはそうそういないと思うので、そういう監督のもとで教わることができたことは幸せに思いますし、これからの糧にできるように頑張りたいということは伝えたいです。
これから取り組みたいこと、新たな目標は?
今考えていることは、私自身が野球界で成長させていただいたことは間違いないことですので、その経験を生かして色々な角度から人材育成をしていきたいと考えています。それが恩返しであり、社会貢献になっていくのかなと思います。
すでにスポーツクラブを立ち上げているので、それを本格的に事業として進めていこうかなと思います。小学生の頃は色々なスポーツ、そして中学生の頃には勉強まで指導できるような、そんなスポーツクラブにしていきたいと考えています。