1986年夏に浦和学院が甲子園でベスト4に勝ち進む原動力になった強打者、半波和仁さん(48)の姿が16日、朝霞市営球場にあった。川越西の二塁手で6番を打つ次男、優斗選手の応援席に駆け付けた半波さん。入間向陽との熱戦を応援しながら、「目標を立てる。それを忘れず努力すれば結果は出る。関わってくれる人に感謝、恩返しすることを忘れてはいけない」と、今この瞬間に白球を追う球児たちに言葉を掛けた。
30年前の夢、球児に託す
半波さんは1984年に浦和学院に入学。6番中堅手として活躍し、86年の県大会初優勝に貢献。甲子園でも本塁打を放った。
あれから30年。今はグラウンドからは離れて、スタンドから2年生の息子に声援を送っている。この日の朝は優斗選手に「打って打球を飛ばさないと試合は動かない。しっかり振れ」と言って送り出した。
試合は入間向陽に先行される苦しい展開。八回に4番本田隼人選手の2点本塁打で追いすがるものの、あと1本が出ず、4-5で惜敗した。優斗選手は四回表、2死一、二塁の好機で打順が回ってきたが飛球で凡退。八回表の最後の打席は、死球を受けて出塁し、勝ち越しの機会を築くも後続が断たれた。
試合終了後、半波さんは涙でくれる選手たちをスタンドから見て、「粘り強く、良い戦いだった」とたたえた。優斗選手には「打って塁に出てほしかったなあ」と少し残念がった。
新たにチームを背負って立つ1、2年生には「強いチームになる気持ちを持って練習に励んでほしい。そして一緒に戦った3年生が来年、応援に駆け付けてくれるから、勝って恩返ししないといけない」と話し、目標を立て、努力し、感謝することの大切さを繰り返し強調した。
そう話すのは、自らの経験に基づいているからだ。浦和学院に入学した時から甲子園に行く目標を立て、黙々と練習に励み、甲子園への切符をつかんだ。
しかし、全国出場の喜びもつかの間、悲劇が襲った。監督を務めた野本喜一郎氏が開会式当日に急逝。チームは悲しみに暮れた。それでも、「みんなが監督に勝利を届けよう」と一戦一戦臨み、ベスト4へ躍進した。苦しい時に仲間の励ましがあったから頑張れた記憶が今も胸に刻まれている。
夏の全国制覇は埼玉県勢にとって見果てぬ夢だ。半波さん自身も届かなかった思いを今夏も球児たちに託している。「全国で勝つ気持ちで練習に励むことが大切。特別なことはない」。球児全員に送ったエールは力強い響きがあった。
(埼玉新聞)