100年の心 白球がつなぐ絆 静の野本 動の斉藤
上尾の野本喜一郎と熊谷商の斉藤秀雄(ともに故人)。100回を数える、全国高校野球選手権埼玉大会(来月7日開幕)の歴史を語る上でなくてはならない名指導者だ。「2強」と言われ、昭和の後半にしのぎを削った両雄。野本が上尾を春夏合わせ6度の甲子園出場に、斉藤が熊谷商を夏の甲子園に5度導いた。2校の甲子園切符が与えられる記念大会の夏。埼玉高校野球界を明るく照らした2人の名将の功績を振り返るとともに、遺志を受け継ぐ教え子たちの証言から、それぞれの監督像などをひもとく。
県高校野球界に輝く両雄 彩の名将
1922年、加須町(現加須市)に生まれた野本は旧制不動岡中(現不動岡高)を卒業し戦後、社会人野球コロンビアを経て西日本パイレーツに入団。西鉄ライオンズなどで右下手投げ投手として、計4年間のプロ野球生活で18勝を挙げた。
引退後は埼玉に戻り、上尾町(現上尾市)で銭湯を営んでいたが、58年に上尾高校野球部初代監督に就任。創部5年目の63年には春の選抜大会で甲子園初出場を果たすなど、みるみるうちに上尾を埼玉の強豪へと押し上げていった。
野本にはライバルがいた。それが2歳下の熊谷商・斉藤だ。斉藤が掲げたのは攻撃野球。70年、第52回大会の平安戦(京都)の13-12、81年、第63回大会の下関商(山口)戦の12-11と甲子園で壮絶な乱打戦を繰り広げた。指導スタイルは闘志をむき出しにして全力で向かっていく、いわば「動」の斉藤だった。
対して、野本は「静」。試合中はベンチの中央に、練習中は一塁ベンチの最もライト寄りにどっしりと腰掛け、選手の動きに鋭い視線を送る。「背中に目のある指導者になれ」。後にこう言われた教え子も少なくない。戦国武将を思わせるたたずまい。ブルペンに足を運ぶことは比較的多かったが口数は少なく、めったに具体的なアドバイスをしなかったのは有名な話だ。
スパルタ、根性野球が隆盛の時代にあって、野本の指導はしごきも、罵声を浴びせることもなく「自分で考えて」育てる方法だった。背景にあったのが戦争体験。野本は第2次世界大戦で日本軍に徴兵され、中国戦線へ送られた。その経験から「連帯責任で殴られたり、体罰が大嫌いだ」とよく口にしていたという。
「自主性」を重んじ、練習は長くても3時間で午後7時には下校。野球が大好き、また明日も野球がしたい―。そう思える“腹八分目”の全体練習時間で、数々の名チームをつくり上げた。(敬称略)
彩の名将・野本喜一郎(上)細田幸夫さん、個性尊重の“野本流”
「野本野球」を長きにわたり、傍らで見てきたのが細田幸夫だ。
細田は上尾の選手だった3年間指導を仰ぎ、大学に通いながらコーチ、野本が東洋大を指揮していた4年間は上尾の監督を務め、野本が復帰後はヘッドコーチとして支えた。「野本野球は個性派集団。個性を尊重し、長所を伸ばす。マイナス面は指摘せず、『おまえは駄目だ』とは決して言わなかった。そこが愛された理由だと思います」
細田は野本の右腕だった。練習のメニューは任され、公式戦の球場に向かう車中では、細田が集めた相手投手や打線の特徴、データを基にその試合の打ち合わせを行うのが日課だった。甲子園に出場すれば、ネット裏で目を光らせた。
支えた名参謀 教え胸に
上尾が原辰徳(前巨人監督)を擁する東海大相模(神奈川)を破って、ベスト4まで進んだ1975年夏。初戦の小倉南(福岡)戦で延長十回裏に生まれた塚原修のサヨナラ本塁打は細田が渡した1枚のメモがきっかけとなったのは秘話だ。
練習時間以外では、趣味だったゴルフや野本が植えて育てていたサツキの盆栽の話をよくしていたというが練習中はコーチの細田にすら、具体的に「こうさせろ」という言葉はなかった。
野本が「守備がチョットあれだな~」とつぶやけば、どこが崩れているのかを見極め、改善に努めた。シートノックの数を少し増やしたり、時には連係プレーを多くしたり、ファウルグラウンドでサイドノックをしたり「監督さんの考えていることは分かりました」。
野本に対し「偉大なる恩師」と尊敬の念を忘れない細田。誇りにしているのが、指導者となった教え子たちの功績だ。
2013年の選抜甲子園を制した浦和学院の森士をはじめ、1999年夏の甲子園で優勝した桐生第一の福田治男、13年に日本一に輝いたプロ野球楽天で1軍チーフコーチを務めていた仁村徹、中大の監督で巨人の阿部慎之助らを育てた清水達也。県内にも活躍している高校野球の監督は多く、「野本監督に出会えたからこそ、こうしてつながりができた。すごい財産」と頬を緩める。
現在、73歳の細田は浦和学院で週に1、2日練習を手伝っている。
「こうしろ」ではなく「こうした方がいいんじゃないか?何で今、フライになったか分かるか?」などとヒントを与えて選手たちにも考えさせる。「指導ではなくて、アドバイス。上から目線では駄目」。不変の“野本流”で、球児育成に力を注いでいる。=文中敬称略
(埼玉新聞)