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「名将」と呼ばれた男たちインタビュー 高校野球は監督で決まる

 高校野球の監督は正解のない孤独な仕事だ。高校球児を率いて、一発勝負のトーナメントを勝ち抜いた者だけが評価される世界。そんな世界で結果を出し続ける5人の「名将」たちが、胸中を語った。

◇甲子園の怖さを知った

 一気か。それとも一歩一歩か。優勝する方法は二つに一つだと思った。

「僕の場合、遅すぎるかもしれないけど(笑)」

 この春の選抜大会、監督生活22年目にして初めて全国制覇を遂げた浦和学院の監督、森士はそう語る。

 森が監督に就任したのは’91年8月、27歳のときだ。翌年春の選抜大会に出場し、最年少監督ながら全国四強入り。しかし「あれはまぐれ」と振り返る。

 「星稜の3年生に松井(秀喜)がいたときなんですけど練習を見て度肝を抜かれた。あの星稜がベスト8でなんでうちがベスト4なんだろう、って。これが甲子園の怖さだと思った」

 2年後は、夏の甲子園に導き、2回戦敗退。最初の勝負の年は就任5年目、’96年だった。3学年合わせると、三浦貴(元巨人)や石井義人(巨人)ら、のちにプロに進んだ選手が5人もいた。しかし春夏と連続出場したが、計1勝しか挙げられなかった。

 「あのあたりから壁を経験し、怖さを覚えていった」

 その年の春、鹿児島実業の名監督、久保克之が監督生活30年目にして県勢初となる日本一に輝いた。その姿と自分が重なった。

 「怖さを知らずに勝つか、年輪を重ねつつ、怖さを乗り越えて勝つか。僕は後者だと思った。最初の5年間で勢いだけで勝つ時期はもう逃したと思った」

 無冠の帝王?。浦学はそう呼ばれ続けてきた。

 森は甲子園出場を3年間、空けたことはない。つまり浦学に入学すれば一度は甲子園を経験できる。さらに言えば、年三度の県大会で優勝できなかった年は、わずか三度。毎年選手が入れ替わる高校野球において驚異的な安定感である。

 だが予測したように甲子園ではなかなか結果がともなわなかった。

 勝っても8強どまり。’05年から’11年までは5大会連続初戦負けを喫した。

 「石橋クンなんです」と森は自嘲する。「石橋を叩かないと渡れない。自分の不安を取り除けないから、それが選手にもうつっていた」

 森は一見すると強面だし、威圧感がある。だがそれは繊細さの裏返しでもある。

 10年ほど前、パニック障害にかかった妻から「私の話を聞いてくれない」と責められて憔悴していた時期がある。その後、森は胃潰瘍を患った。

 「家族が僕の生活の基盤。そこがうまく回らないと野球もダメになる」

 昨年、選抜大会で2勝を挙げ初戦連敗記録をストップ。続く夏は初めて2回戦の壁を突破し、3回戦まで駒を進めた。初めて甲子園で年間4勝を挙げ、森の中で何かが変わった。

 「これまでは甲子園の優勝が、あまりにも偉大過ぎた。だから全国制覇と言いながらも本気じゃなかった。でもその覚悟ができた」

 この春、参加校の監督の甲子園出場回数を見ると、トップの18回だった。「これは優勝しないと」とさらに決意を固めた。

 「できたらいいな、じゃなくて、するぞ、と」

 やることはたったひとつだった。「取り越し苦労をしないこと」

 絵に例えれば、ほとんど白紙の状態で臨んだ。

 「試合の中で描いていけばいい。それを楽しもうという気持ちでいった」

 優勝翌日の朝、初めて勝つことの喜びを知った。

 「こんなにいいもんなんだな、って。それまでは罪悪感でいっぱいでしたから」

  が、同時に新たな怖さも襲ってきた。

 「チャンピオンベルトを巻いてコーナーに戻ったら、もう夏のことを考えていた。勝ってもまだ怖い。これが夏だったらよかったのにって思いましたよ」

 7月1日、桐光学園との練習試合では、アマチュアナンバー1左腕の松井裕樹から18三振を奪われ、わずか1安打で敗れた。

 「夏は選手の完成度が春とは違うから、簡単じゃない」

 本当の戦いはこれから始まる。

「週刊現代」2013年7月27日・8月3日合併号より

http://gendai.ismedia.jp/articles/-/36523

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