浦和学院・小島和哉。実力もさることながら、野球への真っすぐな姿勢と時折見せるあどけない笑顔も相まって、全国の高校野球ファンに愛された左腕だ。安楽智大(済美高、楽天)高橋光成(前橋育英高、埼玉西武)ら投げ合った同学年のライバルがプロの世界へ飛び込む中、自身は東京六大学の名門・早大への進学を決めた。あの敗戦から6カ月。埼玉の球史を動かした18歳は今、何を思う―。
◇名門・早大へ進学 |
昨夏のこと、大学での抱負…。久々に話を聞きたくなり左腕を訪ねた。
その姿は相も変わらず浦和学院グラウンドにあった。大きく変わったことと言えば、寮生活から通いになったぐらい。鴻巣市の自宅から始発電車に乗り、朝練習から1、2年生とともに汗を流している。
昨夏、いったい何があったのか。こう回想する。
「『一人で投げ切る』を合言葉にやってきましたが、大会2週間ぐらい前から投げ方がしっくりこなくて『直そう、直そう』と投げ込んでいるうちに、投げ方が分からなくなってしまって、ずっとヤバイなって思ってました。調整も悪かったです。自分の中で指に掛かった感じが違いました」
良くない結末を覚悟していたという。常勝を宿命づけられた名門を背負う重圧。重圧からくる疲労も重なったはずだ。悪い予感は的中した。
7月15日、川口との3回戦に先発したが5回4失点でライトの守備に回った。あまりに短すぎた夏。敗戦の約3時間後には新チームがスタートした。野球部には引退した3年生が下級生の練習を手伝う伝統があり、自身もサポートに回ったが「心ここにあらずで、1週間ぐらいは野球がやりたくなかったですね」と打ち明ける。
だが7月末のオフに自宅に帰った時、一度だけ川口戦の映像を見た。
率直な感想は「腰の回転は横なのに、腕振りは縦。バラバラだな」。気になったから見たというが、真意はもっと深いところにある。「負けた原因を突き止めないと、同じ失敗を繰り返すと思ったので」。次の一歩を踏み出すため、あえて自分の「ぶざま」な姿を目に焼き付けたのだろう。
プロ野球への思いは。
もちろんある。夏の大会前は「チャンスは少ないので挑戦したい」と考えていた。だが最後の夏を不完全燃焼のまま終えると、「この程度の力しかなかったんだ。もう一度、学生野球で日本一を取りたい」との気持ちに変わっていたという。だからプロ志望届は提出せず、早大のスポーツ推薦入試を受験した。
ライバルたちとは違う選んだ道。新たなスタート地点に立って、ワクワクしていることだろう。
その今の思いを、大学野球での決意として色紙に込めてもらった。それが“挑戦”の2文字。「4年後、もっと上の世界でやるための挑戦、自分より力のある人に挑戦…。いろいろな意味を込めてです」
色紙に“大学日本一”と書こうか、“挑戦”と書こうか、最後まで迷っていた。5分ぐらい考えただろうか、後者を記した。ウラガクでの3年間と照らし合わせるように「でかい目標を掲げるよりも、1年春から試合で投げて、まずは1勝。一歩ずつ一歩ずつ進んでいかないと。自分はそういう人間なので」。決して背伸びをしない、謙虚な彼らしい一コマだった。
◇恩師・森士監督「無限の可能性秘める」 |
小島の恩師・森士監督は「将来、社会人になるか、プロ野球選手になるか、大リーガーになるかは分からないが、無限の可能性を秘めている」と大きな期待を口にした。
森監督は「まだまだ成長していける項目がたくさんある。それを確立するためにも大学に行った方がいい」と進学を勧めたという。投球に関して言えば、「春勝った(センバツで優勝した)時は内角の制球の精密度」だったが、「配球、投球、フィールディング、けん制球の投球術を含めて伸びしろが大きい」と絶賛し、背中を押す。
■小島和哉(おじま・かずや) |
選抜高校野球大会優勝左腕。小学2年から野球を始め、浦和学院高入学後は1年春からベンチ入り。2013年のセンバツでは全5試合に先発し同校を初の全国制覇に導く。2年次の全国選手権埼玉大会準々決勝の埼玉平成戦で大会史上3人目の完全試合を達成。3年次の夏は埼玉大会3回戦敗退も、U-18アジア野球選手権日本代表に選出。しなやかなフォームから打者の手元で浮き上がる直球が最大の武器。最速143キロ。変化球はカーブ、スライダー、カットボール、チェンジアップ。1996年7月7日生まれ。鴻巣市在住。175センチ、76キロ。
(埼玉新聞)