たくさん三振を取れているという感覚は、浦和学院の坂元弥太郎になかった。
「練習試合でも、大体10個とか11個くらいは取っていたんです。だから、この日もすんごい取れているとは思わなかった」
2000年8月11日。坂元は八幡商(滋賀)との1回戦で、無意識のうちに三振を積み上げていった。
相手のことをあまり知らない一回は、いつも通り、慎重に入った。先頭打者にいきなり四球。「まずは外角を中心にバッターの様子や、どういうスイングをしてくるのかを見る。必ず慎重に入るんですよ」
次打者がスリーバント失敗となり、一つ目の三振を記録すると、2死二、三塁では5番打者を空振り三振に。投げていくうちに、相手打線との力関係も分かっていく。「これぐらいの感じで、いけるいけるって」。徐々にエンジンがかかっていった。
重圧や優勝への強い思いは、正直、なかった。やっとの思いでつかんだ甲子園を、ただ楽しんでいた。
この夏、埼玉の優勝候補は断トツで春日部共栄だった。秋のドラフトで中日から1位指名を受ける中里篤史を擁し、打線も強力。「県勢初の全国制覇も狙える」と評されたチームを決勝で延長戦の末に2-1で破り、4年ぶりの出場を決めたのが浦和学院だった。
「中里くんと投げ合って共栄に勝てたっていうのは、自分の中ではかなり自信にはなりました。それだけの思いでつかんだ甲子園だったから、とにかくマウンドを楽しみたいというのがあった」
そしてもう一つ。胸にあったのは、母・和子さんへの思いだ。
和子さんは坂元の高校入学直前にがんで亡くなった。小さい頃から母に誓っていた甲子園出場。ユニホームのズボンのポケットには遺品のお守りを忍ばせ、スタンドでは父の良也さんが遺影を持って見守った。
武器となったのは、縦と横に大きく曲がる2種類のスライダーだった。
「この辺から落とせば大丈夫、とか試合の中でつかんでいけた」。八幡商もこの対決に向けて、「打席の中で投手寄りに立って、曲がり切る前に打つ」と徹底したスライダー対策を練っていたが、当たらない。
七回の三つ目のアウトから7者連続三振で試合終了。19奪三振は、実に54年ぶりの大会タイ記録(当時)となった。
2回戦の柳川(福岡)戦でも、敗れはしたが16奪三振。一躍、坂元の名は全国区になり、秋のドラフト4位でヤクルトから指名された。先発、救援のどちらもこなせる投手として、日本ハム、横浜、地元の西武と4球団で計13年間プレーした。
飛躍したあの夏を坂元はこう振り返る。「運命じゃないですけど、大きくプロへの道が開けたのが、あの2試合だった。プロ野球選手になりたいと思って一生懸命やっていたけど、あれがなければ、大学や社会人を経由していたかも分からないですね」
2013年シーズンで現役を引退し、15年には株式会社「アスリートプランニング」に入社。新規事業として野球スクールを開校し、埼玉県三芳町で幼稚園児から小・中学生を対象に野球を教えている。
もっとも伝えたいのは、「あきらめない強い心」だ。「僕自身、プロで何年もできるような選手ではなかったけど、強い思いで試行錯誤しながらやった結果が13年だった。子供たちにも、頑張れば道は開けるんだよって、経験談として伝えてあげたい」
伝えることの難しさを痛感する日々。「ずっと、勉強ですね」。2017年夏、35歳。バットを振る教え子たちを見つめる目は、厳しくもあたたかい。
坂元弥太郎(さかもと・やたろう)
1982年生まれ、埼玉県川口市で育つ。82回大会は2回戦の柳川(福岡)戦でも16奪三振。ドラフト4位でヤクルト入団。
(朝日新聞)