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<野球びと高校球史90年>「いきなり4強、無名の浦学全国区に」

◇無名の浦学 全国区に

 稲の緑が広がる見沼田んぼや埼玉スタジアムの白い屋根――。その近くに、浦和学院(さいたま市緑区)はある。春と夏の甲子園に県内最多の15回出場し、2位の上尾(7回)を大きく引き離す。10人以上のプロ選手を輩出し、全国から有力選手が門をたたく。

 野球部のグラウンドの道を挟んだ向い側にゴルフ練習場がある。練習場には、野球部前監督の和田昭二(49)の姿があった。今はゴルフ部の顧問だ。

 和田は山口・岩国商から日体大に進んだ。卒業後の81年に浦和学院の体育教師となり、野球部の練習を手伝うようになった。

 浦和学院は78年創立の私立校だ。「特色ある学校作り」を掲げ、クラブ活動に力を入れて生徒を集めた。野球部もしかり。ただ、当時は1回戦を勝ち抜くのが精いっぱいだった。

 84年、上尾を春夏6回の甲子園に導いた野本喜一郎が監督に就くと、鈴木健(元西武など)ら有力選手が入学。状況は一変した。「3年で甲子園に連れて行く」。2年後の86年夏、野本は約束通り、浦和学院を甲子園に導いた。

 けれども、埼玉大会は病院のベッドでテレビ観戦となり、全国選手権大会の開幕を見届けた夜、息を引き取ったという。当時27歳の和田が監督代行として指揮を執った。ベンチには野本の遺影が置かれた。

 和田に気負いはなかった。「怖いもの知らずだった」。1回戦で大阪代表の泉州(現・飛翔(ひしょう)館)を10―3で下して勢いに乗り、ベスト4まで勝ち進んだ。だが、準決勝では松山商(愛媛)に3―14と完敗。6回に一挙10点を失った。

 「勢いが止まった時、全く手を打つことができなかった。経験不足だった」。野本と比べたマスコミに「あの監督では勝てない」とも言われた。

 「何としても来年は甲子園に帰る」と必死になった。翌87年、夏の甲子園に再び戻ってきた。だが、初戦でエース伊良部秀輝(元米大リーグ・ヤンキースなど)らの尽誠学園(香川)に2―5で敗れた。

 以後、甲子園には「あと一歩」届かないまま、4年後の91年に監督を退くことになった。やり残したことがあった。でも、子どもたちを甲子園に連れて行けない現実に、「仕方ない」とも思った。

 浦和学院の名は、今や全国に知れ渡る。「赴任してきたころは、タクシーも道を知らなかった。野球部の功績は、本当に大きい」と誇らしげに語る。

 今も夏の大会などの公式戦になると、球場に足を運ぶ。浦和学院は簡単に負けない粘り強いチームになったと感じる。

 浦和学院の夏の甲子園最高成績は初出場時のベスト4だ。和田は「レベルは確実に上がっている。県勢で一番最初に深紅の大優勝旗をつかむのは浦学だ」と信じている。(敬称略)

http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000010806230001

(朝日新聞埼玉版)

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