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あの夏プレーバック 2000年決勝・浦学vs共栄 世紀の投手戦

あの夏プレーバック埼玉大会編 2000年第82回埼玉大会決勝

春日部共栄 0 0 0 0 0 1 0 0 0 0 1
浦和学院 0 0 0 1 0 0 0 0 0 1x 2
(延長10回)

熱闘、世紀の投手戦 無心の坂元、入魂171球

 運命に導かれるように、2人の投手がマウンドで相まみえた。浦和学院・坂元弥太郎と春日部共栄・中里篤史。2000年の第82回高校野球選手権埼玉大会決勝は、ともに卒業後にプロ入りする才能あふれる両右腕の渾身の投げ合いとなり、20世紀最後の大会のクライマックスを飾るにふさわしい名勝負となった。

 延長十回、浦和学院が2-1でサヨナラ勝ち。勝利のホームを踏んだ坂元。その後ろで片膝をつく中里。ドラマチックな結末だったからこそ、今でも強烈な印象を残し続けている。

 (長文のため以下省略)

天国の母との約束

 それは、坂元さんが浦和学院に入学する1年前、夏の日の出来事だった。

 「弥太郎のお母さんが中学の先生と本人と一緒に見学に来て、浦和学院にぜひみたいな話になった時に、お母さんが言ったんだよ。『これで安心して天国に行けます』って」。森監督は静かに当時を振り返り始めた。

 坂元さんの母和子さんは、がんを患っていた。入院先から学校へ足を運び、息子の将来を森監督に託した。和子さんは病状を森監督にすべて話したという。

 「責任を持って、3年間、お預かりします」。この時が、森監督が和子さんに会った最後だった。

 和子さんは翌年2月に亡くなった。「弥太郎は、失意のどん底で入学してきた」

 森監督は当初、坂元さんを寮に入れる方針だった。寮ならば食事も用意されるし、野球に集中できる環境は整う。その話を坂元さんの父良也さんにした時だった。「坂元家の希望を奪わないでください」。こう切り出されたという。

 坂元さんは男4人兄弟の次男だった。母親がいなくなった坂元家では、坂元さんが精いっぱい野球ができるよう、夕飯を作ったり、母親がやってきたことをみんなで協力し取り組んでいた。「一致団結して、弥太郎を支えることが、家族がまとまる元になっている。不備なのは分かっているが、やり尽くさせてください」と、良也さんは森監督に懇願したという。

 森監督は恵まれた環境で生活をするよりも、自宅から通った中で培われるものの方が大きいと、自宅通いさせることを決めた。

 野球部全体でも坂元さんを支えた。「女房が作った弁当を弥太郎に食べさせてたし、同級生の親もみんな協力していたよ。そこで仲間意識が培われた。一体感があのチームにはあった」

 春日部共栄との決勝前日、良也さんは坂元さんに届けた洗濯物の中にお守りをしのばせた。坂元さんはそれをズボンのポケットに入れて試合に臨み、ピンチになると、そっと触った。「苦しい時の母頼みでした」。激闘を制し、悲願の甲子園出場を果たす。当時、埼玉新聞の取材に良也さんはこう答えている。「よくやった。よく投げた。それしか言いようがない。これまでのすべてが凝縮されたようなゲームだった」。この言葉に3年間のさまざまな思いが込められている。

 甲子園でも54年ぶりの大会タイ記録(当時)の19奪三振という快投を見せ、プロへの扉も開いた。それは和子さんの夢でもあった。

 「母親を甲子園に連れて行きたい。そしてプロ選手になりたいと思い描きながらやっていた」と坂元さん。周囲の支えとともに、天国から見守る母親との約束を果たした。

坂元弥太郎さん「諦めずに夢追う」

 坂元さんにとって、一番思い出深い試合は、甲子園でもプロ選手時代でもなく、春日部共栄との決勝だという。2年連続準優勝を経験してつかんだ悲願の頂点。「野球人生の分かれ道だった。ここで負けていたら野球をやめていた。多分立ち直れなかった」。まさに野球人生を懸けた試合だったと言っても過言ではなかった。

 決勝を投げ合った中里さんには、ライバル意識とはまた違うものを持っていた。「2年秋に実際に見て、ものが違うなと思った。ライバルというより、その上って感じだった」

 甲子園の舞台に立つと、一躍全国に名が知れた。1回戦の八幡商(滋賀)戦で、大会タイ記録(当時)の1試合19奪三振をマーク。実に54年ぶりの快挙だった。2回戦で柳川(福岡)に敗れたが、16奪三振と2試合連続二桁奪三振を記録。プロへの道を開いた。「重圧から解放されて、周りが見えるようになったのかもしれない。勝つことの大事さを、投球の楽しさに変えられた」と振り返る。

 高卒でヤクルトにドラフト4位で入団。その後、日本ハム、横浜、埼玉西武でプレーし、2013年に引退するまで13年間活躍した。浦和学院の森士監督は「あの子の持っているポテンシャルからしたら、全てを出し尽くしたのではないか」と評価する。一方、本人は「20年やりたかった」と話す。「だから、自分の夢はもう一度プロ野球選手になること」だという。

 引退後、株式会社「アスリートプランニング」に入社。三芳町にある同社の野球スクール「APベースボールワールド」で幼稚園児から小・中学生を対象に教えている。

 指導者の道を選んだきっかけは、工藤公康・現ソフトバンク監督だった。工藤監督は埼玉西武時代に一緒に過ごした。「できないことが多い子どもたちをトップ選手に育てることが一番難しい。これができたら、どこでもやっていけるよ」。この言葉が坂元さんを突き動かした。

 「この子たちをプロ野球選手にするために、僕がどうすればいいか。常に勉強です。彼らとともにプロ野球選手になる。それが夢です」と第二の人生を熱く語る。

 球児たちへの贈る言葉。「今まで努力してきたことを全て出し切ってほしい。特に3年生はとにかく熱くなること。がむしゃらに最後まで諦めないで」。高い意識を持ち、諦めなければ夢はかなう。坂元さんの人生そのものだ。

坂元弥太郎(さかもと・やたろう)

 浦和学院入学後、「腕の振り、指先の感覚は素晴らしいものがあった」(森士監督)と才能を認められ、1年春からベンチ入りした。3年次に出場した夏の甲子園では、1試合19奪三振と当時の大会タイ記録を54年ぶりにマーク。2000年ドラフト4位でヤクルト入りし、その後は日本ハム、横浜、埼玉西武でプレーし13年に現役引退。現在はアスリートプランニングに所属し、野球スクール、APベースボールワールドで指導している。川口芝中出身。36歳。

2000年決勝両監督の思い 森監督「弥太郎信じてた」

 平成の名勝負と言われる2000年、第82回全国高校野球選手権埼玉大会決勝。浦和学院・森士監督、春日部共栄・本多利治監督にとっても、忘れられない試合として記憶に残っている。

 森監督は、「執念が実った試合だったことは間違いない。指導者としても大きな節目だった」と振り返る。

 2年連続準優勝。今回は絶対に負けられない。がっぷり四つのしびれる展開に、森監督は緊張感を漂わせていた。「七回、自分の中で突然恐怖に襲われて、鳥肌が立ってきた。戦慄(せんりつ)が走ったのを覚えている」。その時の心境を告白した。

 「2年連続で決勝で負けていて、それでも諦めないでついてきてくれた選手たちに、今日もし負けたら、なんて言えばいいんだと。そういうことが頭をよぎってしまった」というのだ。

 ただ、その思いは選手の姿を見て消え去る。「ぱっと背中越しにベンチの選手の姿を見た時、散々、ああじゃない、こうじゃないと常に文句を言われてやってきた選手たちが、『俺たちはやることをやってきたんだから、負けるはずがない』と、勝利を疑う姿が一つもなかった。それを見て、逆に自分が勇気をもらった。俺がこんな風に思っていたら負けちゃうぞって。勝つためにはどうしたらいいのか。それだけを考えた」。

 そして、運命の延長十回で決着。チーム全員でもぎ取った勝利に、「十回の攻防は全ての集大成だった」と言い切る。

 投げ切った坂元については、「弥太郎を信じていた。7月に入ってから、確かに変わった。それまでは苦しみもがいていたから。原点は素直さ。本当に素晴らしかった」と目を細めた。

 本多監督は「あの負けは本当にきつかった」と一言。「中里は練習が真面目でね。野球が好きで。俺の言うことを素直に聞いて、一生懸命やる子だった。甲子園に行かせてあげたかった。周りも真面目で一生懸命やる子たちだったから、本当に行かせてあげたかった」と、かつての教え子だちに思いをはせる。

 今でも十回2死満塁、島田のピッチャー返しを坂元に好捕されたことを鮮明に覚えている。「センター前に抜けていたら、うちの勝ちだった。ツーアウト満塁だからね。それを相手は切り抜け、うちはものにできなかった」。直後の守りでサヨナラ負けには「精神的な部分。やっぱり、えてしてあるね」。

 浦和学院の気迫は認めていた。それでも「うちも、中里で甲子園に行く。そんな強い気持ちでチームを育ててきた。意地のぶつかり合いだった」と、プライドを懸けた試合であったことを口にする。甲子園で勝つチーム。本多監督は全国制覇を本気で狙っていた。しかし…、

 「そこに弥太郎。弥太郎君がいたんですよ」

読者が選んだ名勝負7試合

埼玉大会編1位129票 2000年決勝・春日部共栄vs浦和学院

 埼玉新聞社が今夏、全国高校野球選手権第100回大会を記念しホームページ上でアンケートを実施した「読者が選んだ名勝負」は1838票が集まり埼玉大会編、県勢夏の甲子園編のそれぞれ上位7試合を選出した。

 埼玉大会編の1位は129票で第82回大会(2000年)決勝の春日部共栄-浦和学院。「世紀の投手戦」「歴代史上最高の決勝戦」と語り継がれる共栄・中里と浦学・坂元の本格派右腕同士の投手戦は、坂元に軍配が上がった。1-1の延長十回裏、浦和学院は丸山が中里の直球を中前にはじき返し、二塁走者の坂元がホームを踏み、2-1でサヨナラ勝ちした。

 2位は第70回大会(1988年)準決勝の浦和市立-川口工。浦和市立が6-5で競り勝ち、決勝も制し初優勝。甲子園でも4強まで進んだ。3位は第79回大会(97年)4回戦の上尾-松山。上尾・中村と松山・島田の投げ合いは延長十七回裏に大山の適時打で2-1と上尾がサヨナラ勝ち。

県勢甲子園編1位141票 2017年準決勝・花咲徳栄vs東海大菅生

 県勢甲子園編1位は141票で第99回大会(2017年)準決勝の花咲徳栄-東海大菅生(西東京)。徳栄が6-6の延長十回に3点を勝ち越し勝利。決勝では広陵(広島)に圧勝して悲願の埼玉勢初優勝を飾った。

 2位は第70回大会準々決勝の浦和市立-宇部商。浦和市立が延長十一回表に横田の3点三塁打などで4点を勝ち越し4強に進出した。3位は第75回大会(1993年)決勝の春日部共栄-育英(兵庫)と第95回大会(2013年)1回戦の仙台育英-浦和学院。春日部共栄は2-3で敗れ、惜しくも県勢初優勝ならず。浦和学院は甲子園春夏連覇を目指したが2年生エース小島の乱調で10-11でサヨナラ負けした。

(埼玉新聞)

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